2010年01月05日

恩師の奥様と池田亀鑑

 昨年五月にお亡くなりになった小林茂美先生のお宅へ、仕事帰りに立ち寄りました。
 奥さまとは、夜の7時から延々3時間半もしゃべりました。とにかく、話が途切れなかったのです。もっとも、8割かたは奥様が話しておられましたが……。……と、私は思っています。
 とにかく、話がおもしろいのです。つい相槌を打つと、またまた話が広がります。
 小林先生の話題になると、お互いに言いたいことがいっぱいあって、止まりません。

 遺影の横に置いてある、昨年7月に刊行した『源氏物語別本集成』の話になったとき、私は急に池田亀鑑のことを思い出しました。いつか、ある宴会での帰り際に、奥様が池田亀鑑の仕事を手伝っていた、ということをチラッとおっしゃったことがあったのです。そのことを思い出したので、改めてこの機会にお聞きすることにしました。

 昭和23年頃の話です。今から60年前です。

 奥様が昭和女子大学の学生時代に、池田亀鑑は講師として『源氏物語』を教えに来ていたそうです。
 好奇心の旺盛な奥様は、いつも一番前で熱心に聞いておられました。今思い起こせば、たくさんの質問をしたものだ、とか。
 そのうちに、下の名前で呼んでもらえるようになり、池田亀鑑のカバン持ちになっていたそうです。
 あるとき、学長を通して、仕事を手伝ってくれる人を探しているとのことで、奥様は名指しで依頼され、その他に5人くらい気の合う仲間を選んで家へ来るように、と言われたのです。学長からは、学校として向けるのだから、友達と行ってシッカリと大先生のお手伝いをして来るように、と言われ、光栄に思って椎名町の池田亀鑑のご自宅に通われたのです。
 ちょうど奥様が二十歳のときです。

 仕事は、『源氏物語』の写本を鉛筆やペンで筆写することでした。虫が食った本や、汚くて匂いのする本もあったようです。だいたいが枡形本(20センチ四方)で、大きな立派な本もあったとか。
 仕事の前に、必ず手を洗わされたそうです。古写本を触ることになるので、本を大切に扱うためです。これは、今でもそうしていることです。
 天井まで堆く本が積み上げられた薄暗い部屋で、池田亀鑑は梯子で上って高いところの本をとっていたそうです。

 筆写する紙は、池田亀鑑が用意することはなく、便箋や原稿用紙を自分で買って行き、ただひたすら写し続ける日々でした。電車賃も弁当代も出なかったので、今のアルバイトとはまったく違う、勤労奉仕に近いものだったのです。
 その仕事の意味はまったく説明がなかったので、何をさせられているのかは皆目わからないままの、とにかく単純作業でした。

 一字も間違うな、ということだったので、書き写したら友達のものと交換し、読み合わせて間違いがないかを確認し合うこともありました。また、文字は声を出して読めとも言われたそうです。
 筆写にあたっては、一行は一行のままに写すことになっていました。末尾に書き残した文字を次の行の頭に書くことは許されなかったのです。本当に、今のコピーマシンの代わりをしておられたのです。
 行間に書かれた注記も、本文を修正したところも、そのまま写したそうです。ただし、字母までの正確さは求められなかったようです。
 ナゾリや抹消されていて読めない文字は、丸印をして「不明」と書いておいたとのことでした。
 朱書きのものは、どうしたのか記憶にないそうです。赤鉛筆はつかわなかったようだが……とも。

 私が推測するに、これは借りてきた本を筆写しておき、『源氏物語』の本文異同を確認する時のための副本作成をする作業だったのではないでしょうか。昭和17年に『校異源氏物語』が、その改訂版である『源氏物語大成』が昭和28年に刊行されています。奥様がこの筆写の仕事を手伝っておられたのは昭和23年なので、ちょうどその中間の年にあたります。

 同じ家の別の場所には、東大の学生さんがたくさん来ていたようです。
 本文の違いを確認するとともに、本文異同の校異の作業は、この東大生たちがやっていたのでしょう。この東大生たちは、写本と共に、奥様たちが筆写された便箋に書いた本文も、資料として手に持っていたそうです。
 とにかく、本を写す作業は女の仕事となっていたのです。

 奥様と話をしていたらキリがないので、今日はこのへんで、ということで打ち切って帰ることにしました。
 池田亀鑑との話は、ほんの40分ほどだったので、次の機会にさらに伺うことにします。一緒に椎名町へ行ったお友達は、もう半分以上いない、とのことでした。1人知っているので、また電話で聞いて思い出しておく、とのことでした。今度は、もっといろいろなことを聞きたいと思います。
posted by genjiito at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | *回想追憶