2009年12月31日

2009年の10大出来事

 今年も、いろいろなことがありました。
 そして、無事に年を越せることに感謝しています。

 以下、この1年間を時系列に思い出してみます。

1.印度ネルー大学でウルドゥー語訳源氏物語を発見
2.伊国ベネチア・フィレンツェ・ローマ大学で調査
3.国文学研究資料館館長が伊井先生から今西先生へ
4.大学時代の恩師で仲人だった小林茂美先生ご逝去
5.40年間未開封だった亡母からの手紙を開封する
6.2年ぶりのスクーバダイビングで南紀白浜へ行く
7.英国へ2度行きケンブリッジ大学で国際集会開催
8.谷崎潤一郎全集を揃え作品を発表順に読み始める
9.上下の奥歯の手術直後に担当医だった先生が急逝
10.本ブログ「賀茂街道から2」を毎日欠かさず更新

 さて、来年はどんな年になるのでしょうか。

 今年は、生き方を意識的にスローダウンしました。
 なかなか辛い局面もありました。しかし、何とか1年を過ごすことができました。
 そのために、いろいろな方に、いろいろな所でご迷惑をおかけしたことと思います。
 来年も、このままもう少しペースをダウンしたいと思います。
 何とか出来そうでも、敢えてしない、ということを今年から実践し出したのです。
 組み込まれた63年という寿命を、1日でも長く生きたいと思うようになったからです。

 みなさまにはご迷惑をおかけしますが、私なりの事情があってのことです。
 これまでと変わることなく、来年もよろしくお付き合いのほどを、お願いいたします。
posted by genjiito at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑記

京洛逍遙(116)師走の錦市場

 年末には、錦市場へ買い出しに行きます。
 奈良にいたころから、毎年出かけていました。

 今年も、大賑わいです。
 歩くのが大変で、時々立ち止まっては、反対方向からの買い物客を遣り過ごすことになります。
 市場を見物する人が多いせいか、手に買った物のない人が目立ちました。
 
 
 
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 今年は、待望の龍飛巻を手に入れました。
 生湯葉も甘鯛も赤カブも、みんな少し高めでした。
 錦の赤カブは立派でした。店頭になくて、裏から出してもらいました。値段も、一本300円と豪勢です。

 お正月ならではの乾物など、楽しい食材もいっぱいあります。
 
 
 
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 錦には、何でもあります。衣料品屋さんもあるのです。

 錦市場は、烏丸側から河原町方面へ東西約400メートル、そこに約130軒の店が軒を連ねています。
 新京極商店街のある東の突き当たりには、錦天満宮があります。
 日頃は素通りなので、久しぶりにお参りしました。
 
 
 
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 お参りの仕方などが、時代に迎合しているように思えます。

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 修学旅行生が多い地域であることを意識してのものなのでしょうか。
 少しがっかりでした。

 年の瀬の三条から四条にかけて、このあたりの人出は大変です。
 年が明けると、着物姿の人々で溢れることになります。
posted by genjiito at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆京洛逍遥

2009年12月30日

スパムメールの猛威

 年の瀬となり、インフルエンザらなぬスパムメールが蔓延しています。
 迷惑この上ないことです。
 このところ毎日、千数百通の迷惑メールが届きます。
 ほとんど、フィルタで選別しており、今月に入ってから、今のところは大切な方からのメールでスパムと認定されたものはないようです。

 しかし、スパムメールを貯めておく趣味はないので、定期的に、1日に数回は一括で削除しています。
 一応は視認して、まともなメールが紛れ込んでいないかをチェックしてから、一気に削除しています。

 とはいえ、何分に見たくもないもゴミ箱の中なので、真剣に確認してはいません。
 ということは、大事な連絡を削除している可能性もあります。

 私が迷惑メールとして投げ遣っているメールは、おおよそ以下の通りです。

(1)私のアドレス帖に登録されていない方からのメール
(2)題名、タイトルのないメール
(3)卑猥な単語を含むメール
(4)上記以外で、日本語ではないメール

 こんな基準でスパムの認定を設定しています。

 私は、国文学研究資料館のホームページの立ち上げなど、10年前からメールアドレスを公開していました。
 当時は、インターネットの普及のためにもあって、メールアドレスやホームページのアドレスを、積極的に公開していたのです。
 情報発信の立場から、情報公開と情報収集のために、アドレスを明記してネットの運営をしてきました。

 そのためもあって、これまでにさらしていたアドレスに、スパム攻撃を受けています。
 かといって、今さらメールアドレスを変更するわけにもいかず、そのまま使っています。

 もっとも、5つのメールアドレスを使い分けているので、最終的には1カ所に集積したメールを読みますが、適宜アドレス別にチェックをすることで、ストレスが溜まらないように工夫はしています。

 歳末までは、毎月800通の迷惑メールだったので、今年だけでも30万通弱ものスパムメールを駆除・削除したことになります。
 それも、その大半を一応は目を通したことになるので、これだけでも大変な労力を取られていることになります。
 深くは考えずに、よくわからないメールはドンドン削除することで、ストレスが溜まらないようにしているつもりです。

 そんな環境に身を置いていますので、もし私宛に送ったメールに返信がなかったり、何もしていないようでしたら、削除した中にいただいたメールがあった、ということでお許しください。

 3日経っても何の反応もないときには、私が読まないままに削除したメールに紛れ込んでいた、と思ってください。そして、再送信してくださることをお願いします。

 ネットという情報化社会も、テロのような状況にあります。
 便利なだけに、いろいろと不愉快なことがあります。
 そのような環境のなかで、「なんでもあり」の感覚で、今後とも対処していきたいと思います。
 失礼の段、ご寛恕のほどを、切にお願いいたします。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆情報化社会

調理修行(4)最近食べたお揚げさん

 大宮通り商店街で、これまで気づかなかったお揚げさん2種類を見つけました。
 共に、紫野にあるお店で作られたものです。
 
 
 
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 そして、近所の豆腐屋のノーブランドとでも言うべきお揚げさん。
 
 
 
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 普通は25センチ以内であるのに対して、これは30数センチもあります。
 載せる皿に困ります。
 フンワリと柔らかくて、食べ飽きない味です。

 これまでのお揚げさんでは、南禅寺のものが一番だと思います。柔らかな食感がいいのです。
 次に、北野天満宮のお揚げさんでしょうか。これは、サッパリとしているところが気に入っています。 
 そして、この地元のお揚げさんを3番目としておきます。

 このお揚げさんは、東京では口にできない、京都でしか口にできない贅沢な食べ物です。
 これを食べるときには、糖質0%の「月桂冠」を飲むのが、私にとっては最高です。絶妙の取り合わせです。

 ささやかな楽しみです。それでいて、心豊かになる楽しみです。
posted by genjiito at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 美味礼賛

2009年12月29日

「楚者鶴」の「そば寿司」

 京都での食事は、自分のカロリー制限を意識して食べ歩いています。
 そのせいもあり、もっぱら和食が中心です。
 もちろん、回転寿司がベースとなる食事です。しかし、イタリア料理もオリーブオイルが効果的なので、けっこう入って見たりしています。

 お蕎麦屋さんも、いろいろと覗きました。中でも、近所の大宮通りにある「楚者(そば)鶴」は、気に入ったお店なので、何度も行っています。


 年末の忙しいときでもあり、今日も行きました。夫婦2人で仲睦まじくお店をなさっているせいか、雰囲気がとてもほっこりしています。落ち着いて食べられるのです。
 
 
 
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 この店では、私はいつも「そば寿司」を注文します。
 
 
 
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 お酢の加減が、私にピッタリなのです。そして、ショウガの味も、好みです。

 大宮通り商店街は、京洛の名だたる商店街の中でも、私は気に入っているところです。 
 その歴史は言わずとしれたこと。
 今の清潔感は、何度行っても気持ちのいいものです。
 整然とした町並みに構えるお店の一つ一つが、歴史を感じさせます。
 交通の便がよくないので、地元の人しかいかないところです。それが、この商店街のよさだと思います。

 私が京都に住まうようになって2年です。その間にも、少し元気がなくなってきた店を見かけます。
 地域で活力を再生してほしいと願っています。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 美味礼賛

2009年12月28日

ヒートテックの下着は効果あり

 年末には、いつも家族で墓参をし、掃除をしています。
 お墓は、『伊勢物語』で知られる大阪・八尾市の高安の里にあります。
 私は、小学5年生から南高安小学校に転校し、そして南高安中学校を卒業しました。
 まさに、『伊勢物語』の世界にいました。
 お墓は信貴霊園といい、信貴山の手前の高安山にあります。小学生時代には、忍者部隊月光ごっこをして、この山を駆け上ってあそんだものです。

 京都に引っ越しをしてから、自家用車は手放しました。以来、少し遠出をするときには、レンタカーを使っています。自転車で行ける距離に、レンタカー屋さんが2軒もあるので、重宝しています。今日は、烏丸今出川にあるレンタカーを使いました。車は、ホンダのハイブリッド車で、インサイトというものでした。今夏はトヨタのプリウスでした。ホンダ車に乗るのは初めてです。後部座席が、少し跳ねるようでした。

 今日は、何と言っても、昨日購入したユニクロのヒートテックのインナー類の試用です。どれくらいの保温効果があるのか、実際にテストをすることにしました。

 自宅からお墓までは、名神高速と近畿自動車道と阪神高速を使って、1時間半くらいです。
 東京からかけつけた息子とは、近鉄信貴山口の駅で待ち合わせをしました。

 お墓は山を削った斜面にあり、眼下に近鉄高安駅のあたりの八尾市から大阪市、その向こうに神戸の六甲連山が見渡せます。
 今日は曇っていましたが、天気がいいと淡路島も臨めます。
 
 
 
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 お墓には、8月のお盆以来です。南天がきれいに実をつけていました。松も、元気です。
 
 
 
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 今日は、春らしく、チューリップを加えました。
 父が島根県の出雲から移したお墓は、こうして今も我々が守っています。子どもたちも、引き継いでくれることでしょう。
 墓石の前面下には、我が家の家紋である「丸に九枚笹」が、「総廟」というのは、父がこだわった呼び方です。
 お茶とお水とお菓子をお供えしました。
 過日行った出雲の銘菓「俵饅頭」も、2つ供えました。これは、小さい頃から両親が、薄茶と共に食べさせてくれたお菓子です。出雲大社の「いなばや旅館」の前にあった俵屋本家から買ってきたものです。

 鮮魚料理屋さんで、家族一緒にお昼をいただきました。私は、海鮮丼にしました。飛び魚、カンパチ、鯛、ヒラメ等々、新鮮な魚が盛りだくさんで、それで千円もしません。10人も座れないカウンターの小さな店でした。東京では考えられない贅沢な海鮮丼です。

 レンタカーは6時間借りて、ガソリン代込みで1万円です。
 走行距離は146キロで、消費したガソリンは7リットルなので、燃費は20キロでしょうか。
 ハイブリッド車は、軽自動車よりも燃費がいいようです。もっとも、高速道路を主に使っていたことも関係します。しかし、京都市内は渋滞の中を、ノロノロと走るというよりも、移動していたというのが正確でしょう。年の瀬なので、仕方のないところです。

 今年の夏、お盆で墓参したときには、トヨタのプリウスを借りました。
 この時には、189キロ走って、燃費は14キロでした。プリウスが、意外に燃費が悪いので驚きました。レンタカー屋さんは、走り方もあるし、ガソリンの満タンというのも正確ではないので、ということで、1000円分の割引券をくださいました。

 さて、肝心のヒートテックの下着です。
 車に乗っていた時間が長かったとはいえ、山の上にあるお墓でも、まったく寒さは感じませんでした。これは、優れもののようです。

 レンタカーを返してからは、自転車を押して歩いて帰りました。身体は、少し汗ばむほどにホカホカしていました。
 動くと、体温を保ってくれるようです。
 これは、なかなか重宝しそうです。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑記

2009年12月27日

モンゴル行きの装備

 新年早々にマイナス30度の世界へ行くため、少しずつ準備を始めました。
 まずは、足下の問題です。
 滑りやすいので、気をつけるように言われています。そのことに気をつけながら、くるぶしを覆うような温かい靴を探しました。
 いろいろと歩き回った結果、登山用品の専門店でもある好日山荘で、こんな靴を見つけました。
 
 
 
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 これは、マイナス40度まで対応しているものです。

 お店の人との話の中で、底がゴムなので滑り止めも必要ではないか、とのことで、写真の下にあるようなスノーアイスパッドという、簡易滑り止めも一緒に購入しました。
 ただし、これは不要だったようですが。

 今年から、立川の職場には、南極観測を主たる任務とする極地研究所が同じ建物に入ってきました。
 ペンギンや南極観測船や昭和基地の模型などは、日々目にしています。
 オープニングの時には、マイナス30度の冷凍庫に入るツアーがあり、貴重な体験ができたそうです。しかし、私はその時には参加できなかったのです。今にして思えば、無理をしてでも体験しておくのだったと、少し悔やんでいます。 

 下着とインナーは、ユニクロのヒートテックで揃えました。
 明日から、試しに着て、その性能を見ることにします。

 手袋、帽子、ジャンパーは、これからです。マフラーは長いものがいいそうです。これはあります。マスクも、インフルエンザ用に、たくさん買い置きがあります。

 選りに選ってこんな時期にそんな極寒の地に、と言われます。しかし、『源氏物語』をモンゴル語訳した方にお目にかかれるのであれば、こんなチャンスはまたとありません。
 観光シーズンは完全に外れているので、じっくりとお話をお聞きできるはずです。
 私としては、凍傷や病気などで迷惑をかけないように、気をつけたいと思っています。

 最初にインドへ行ったときも、新年早々の非常に寒い時期でした。暖房もない部屋で、震えながら2月の温かい日が来るのを待ったものです。
 最初に厳しい気候を体験していると、あとはいいことばかりが目につきます。
 いろんな体験をする中で、人間の生き様や文化の変容を、じっくりと見てくるつもりです。

 モンゴル語訳『源氏物語』は、現在2人の方に日本語に訳し戻してもらっています。
 1人は日本の方に、もう1人はモンゴル出身の方です。その2つを読み比べながら、日本の文学や文化が、どのようにモンゴルに伝えられているのかを調べてから、現地に出かけることにしています。
 そして、その違いについて、モンゴル語訳をなさった方に、直接お話を聞こうというのが、今回の私のテーマです。そして、翻訳された世界を理解するのに参考になる物事や事象を、自分の眼で見てくることで、翻訳されたことばの意味を確認したいと思います。

 さて、どんなことがわかりますか。
 そして、どんな旅になるのでしょう。
 追々、報告します。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑記

2009年12月26日

京洛逍遙(115)賀茂川の中州

 昨夜は、立川であった研究会の懇親会の二次会を途中で退席し、立川駅前から夜行バスで京都に帰ってきました。
 バスは3列の座席で、後ろまで深く倒れるシートでした。しかし、後ろの席の方が背中を何度も押したり蹴ったりなさるので、眠れないままの帰宅となりました。
 中途半端な身体の休め方は、その後は怠さだけが残ります。

 身体をシャキッとさせるためもあって、賀茂川を散策しました。
 このところ、とみに賀茂川の中州が大きく拡がり、川の景色が一変しているところが目立っていました。
 
 
 
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 行政もこれを何とかしようとしていたらしく、この中州を取り除く工事が、昨日から始まっていました。
 上賀茂神社のすぐ西の御園橋から上流を臨むと、その工事現場が右手に見えました。
 
 
 
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 どのような工事をしているのか、気になったので行ってみました。

 水を堰き止めて、砂を掬い上げるようです。
 
 
 
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 この中州除去の工事は、20年ぶりのことだそうです。10年計画とのこと。
 自然環境にも配慮して、川幅の2割は中州を残すようです。この中州には、たくさんの動植物が生息し、休息の場としていたところなので、いいことだと思います。

 環境を守ることの大切さを、こうした折に知ることとなりました。
 自宅近くの河原の公園も、整備が進んでいます。いい取り組みだと思います。
 京都は、きめ細やかな思いやりが感じられて、住みやすい住空間となっていきます。
 千年の歴史を背負って生き続ける都は、さまざまな所で明日への工夫が感じられます。

 現在進行中の自動車を市内から遠ざける方策や、自転車のあり方を考える街作りも、真剣に取り組んでいるところがいいと思います。
 町家の保存についても、さらなる成果が得られるよう、少しでも協力したいものです。

 上賀茂神社の横まで来たので、参拝して帰ることにしました。
 
 
 
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 お正月の準備が進んでいるところでした。
 神社は、いつも明るさがあって、気持ちのいいところです。
 紫式部に縁のある片岡社と歌碑、そして橋本社を経巡りました。

 社務所の前の厄年の立て看板を見ていると、長男が来年は大厄であることがわかりました。
 巫女さんにお祓いのことを尋ね、お正月に厄落としをしてもらうことにしました。
 何気なく横を見ると、来年は私の還暦の年に当たることもわかりました。
 数え年での通過儀礼とはいえ、驚いてしまいました。
 こうして、確実に齢を重ねているのです。
 生きていることを実感させられた、上賀茂での一時となりました。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆京洛逍遥

2009年12月25日

源氏私見(3)源氏物語本文研究略史

 今日は、国文学研究資料館が主催する基幹研究「王朝文学の流布と継承」の研究会がありました。
 私は、「『源氏物語』における傍記の本行本文化」と題する研究発表をおこないました。
 『源氏物語』の本文が2つに分かれることと、「蜻蛉」における傍記が本行の本文に混入することを報告しました。

 発表後にいただいた質問を2つほど。

 ・「推定 親本」とはどういうものか。
 ・2つに属さない写本はどうするのか。
 
 共に、今の私には説明のしきれないものなので、ありのままに思うことをお答えしました。
 発表することにより、今後の課題が改めて見えてくるようになりました。
 よい聴き手に恵まれたことに感謝します。

 以下、今回の[発表要旨]と、資料[源氏物語本文研究略史]を掲載します。
 [源氏物語本文研究略史]は、『源氏物語』の本文研究に関係する事柄を、時系列に列記したものです。
 『源氏物語』の本文の問題を考える時に、有効に利用していただければ幸いです。
 今後ともこれに手をいれながら、よりよいものに仕上げていきたいと思います。
 不備や追記事項がありましたら、教えてください。
 
 
 

[発表要旨]

 『源氏物語』の本文研究に関する関心は、昨年の千年紀イベントを通して大いに広まったと言えます。マスコミの取り上げ方を見ると、その傾向がよくわかります。『源氏物語』の本文のことが、第一面の、しかもカラー版でのニュースになるのですから(別紙参照)

  (A)ブログ「『源氏物語』では「標準本」と言うより「基準本」がいい」(2009・10・31)
    http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2009/10/post-9dc4.html

 しかし、『源氏物語』の本文を研究している方は、まだまだ少数です。そして、その研究は七十年以上も停滞したままです。
 従来は、池田亀鑑が提唱した〈青表紙本・河内本・別本〉という分類によって、『源氏物語』の本文が説明されてきました。今でも、それを継承した意見が多いようです。しかし、この池田亀鑑の分類は、昭和十三年(一九三八)までの写本調査の成果として示されたものであり、その後、多くの写本が確認されています。新たな本文分別が求められています。
 発表者自身も、研究を目指しながらも翻刻に多くの時間を割き、『源氏物語別本集成(全十五巻、約三億字校合)』と『源氏物語別本集成 続(第七巻まで刊行、約七億字校合、予定)』の刊行を続けています。しかし、いまだ資料整理の段階で留まっています。
 なお、『源氏物語』の本文について、私は〈甲類・乙類〉という、二分別試案を昨秋より提示しています。それまでは、〈河内本群〉と〈別本群〉という二分別私案でした。

  (B)ブログ「源氏私見(2)2種類の本文を読む受容形態の提唱」(2009・10・10)
   http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2009/10/post-949c.html

 また、多くの異文は、傍記された字句が本行に混入することによって発生したものであることも、例証して来ました。

  (C)ブログ「源氏私見(1)写本の傍記混入で異文が発生」(2009・10・9)
   http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2009/10/post-d274.html

 今回の発表では、第五十二巻「蜻蛉」の本文を例にして、本文が二分別できることと、傍記が混入する様態を確認します。
 
 
 
 
[源氏物語本文研究略史]
(2009年12月24日現在)


  【「源氏物語年表」(『源氏物語事典』東京堂)より抜粋。※は伊藤のメモ】

※明治四十年(一九〇七)六月、大澤本のことが新聞に掲載
 十一月 小杉※邨(すぎむら、※は「木」へんに「囚」+「皿」)が大澤本を鑑定

※大正元年(一九一二)『国文叢書 源氏物語 下巻』(池邊義象編、博文館)の巻頭に「横笛」(後醍醐天皇宸筆)が「原本大和大澤氏蔵」として写真一葉掲載(伊井春樹先生からのご教示による)

・大正八年(一九一九)四月、山脇毅の論文「平瀬本源氏物語」成る、五十四帖中三十帖は河内本であるとした、大正十年十二月雑誌に登載

・大正十年(一九二一)三月、京都大学文学部から平瀬本源氏物語の内桐壺真木柱二帖がコロタイプ版で刊行された

・大正十一年(一九二二)十二月、山脇毅の「曼殊院本源氏物語」出ず、蓬生、関屋、薄雲三帖は河内本であるとした

・大正十四年(一九二五)アーサーウェーリの「英訳源氏物語」第一巻葵まで刊行、昭和八年(一九三三)第六巻刊行完結
 九月、金子元臣の「定本源氏物語新解」上刊行、昭和五年(一九三〇)三月下刊行、三冊完結、青表紙系の本文の大部分を河内本によって校訂した、上刊行の時、著者所蔵の河内本四十二帖の存在を発表した

・大正十五年(一九二六)四月、芳賀博士記念会は源氏物語注釈書編述を池田亀鑑に嘱託した、後諸注を集成することに変更し、更に本文の調査研究を主とし、諸注集成を副とすることに変更した

※昭和四年(一九二九)頃、池田亀鑑夫妻が大澤本を調査(ただし「45橋姫」以下は未了)

※昭和六年(一九三一)頃、佐渡で大島本が見つかる

・昭和七年(一九三二)六月、「日本文学大辞典」第一巻刊行、池田亀鑑執筆の源氏物語の項、その他関係の項は、従来の研究を概観した
 十一月、芳賀博士記念会の事業、池田亀鑑の「校異源氏物語」の稿本が完成したので、蒐集した資料の一部を東京大学で展観した、本文資料は青表紙系統六十二種、河内本系統三十四種、別本系統二十四種を算した
※(『源氏物語に関する展観書目録』によると、諸本列記の順番は「河内本系統」「青表紙系統」「青表紙・河内本以外の系統」の順。尾州家河内本が「伝後京極良経等各筆本(写真)」として3番目に掲出され、次に平瀬本(校合)が並ぶ。現今大島本は「伝飛鳥井雅康筆本」(写)として六一番目にあり、「青表紙本系統」のグループの中では二七番目となる。一二二番目に「校本源氏物語底本 河内本(禁裡御本転写)(室町時代)」、「特別陳列」リストの冒頭に「校本源氏物語原稿(第一次)〜(第五次)」、次に「校本源氏物語系統表」)(尾州家本、国冬本、東山御文庫本、池田本、正徹本、言経本、麦生本、阿里莫本等が河内本・青表紙本・別本いずれにも見いだせることから、まだ池田亀鑑による本文の分別が未了の時点のものと思われる。)(ここで校本の底本となったと思われる天理図書館現蔵の五十三冊に付された池田亀鑑筆の別紙(識語)には次のよう書かれている。「特、貴(此二字/朱書き)/河内本源氏物語五十三帖(一帖欠)/河内本源氏物語にして現存する写本/中東山文庫御蔵本高松宮家御/蔵本平瀬家蔵本等最も整へるものと/称せらるされとそれ等はなほ異本系/統のもの混入し合計四十冊以上に及ふも/のなし尾州家蔵本の如きも補写/の部分あり純粋河内本はこれまた四十/冊に達せす独本書は桐壺椎本の二/帖のみ補写初音一帖欠本にて他は悉く/河内本なりとす現在まてに発券せられたる/諸本中五十一帖完備したる河内本は実/に本書を以て唯一のものとなす書写年/代は永正年間なること確証あり/本書は学界の重宝として貴重す/へき希有の珍本にしてよろしく校本源/氏物語の底本として学界に弘布す/へきものなり/昭和七年十一月 識之」『天理図書館稀書目録 和漢書之部 第三』)

・昭和八年(一九三三)一月、池田亀鑑の「源氏物語系統論序説」刊行

・昭和九年(一九三四)六月、「尾州家河内本源氏物語」を金属版で複製刊行した、正嘉二年(一二五八)に北条実時が親行の本を写させたものである

・昭和十年(一九三五)十二月、山岸徳平の「尾州家河内本源氏物語開題」刊行、同十一年二月「河内本源氏物語研究序説」と改題刊行

・昭和十二年(一九三七)二月、東京大学国文学科で、芳賀博士十周年の忌辰に、源氏物語古写本、古注釈書三十余部を展観した
※(定家自筆本二冊の後に現今大島本を掲出、「本書は書写年代に於て必ずしも旧からずと雖も、現存諸本のいづれよりも原本の面目を最も忠実に伝へたりと推定し得る諸条件を具備し、本文考勘上きはめて重要なる資料たり。」。また、河内本の最初の尾州家本に「書写年代古く、本文に誤写少く、親行の本を以て書写したる由の奥書を有し、河内本の一証本として貴重なるものなり。」とある。三番目に現中京大学蔵本を掲出、「本書の学術上の価値は、標準に近しと推定せらるる句点声点を有し、本文も亦正しく、現存諸本中比較的形態の完全なる点に在り。」)『源氏物語展観書解説』より
 六月、吉沢義則の「対校源氏物語新釈」第一冊刊行、同十五年八月第六冊刊行完結、後同二十二年十六冊本再刊、二十七年には索引二冊を加えて八冊本刊行、湖月抄を底本とし、これに尾州家河内本を対校し、傍注頭注を加えた

・昭和十七年(一九四二)十月、池田亀鑑の「校異源氏物語」全五冊刊行、青表紙原本三帖、飛鳥井雅康筆本四十八帖、池田本三帖を底本とし、これに青表紙古写本二十三種、河内本二十種、青表紙河内本に属しない別本十六種の異文を欄外に挙げた、大正十五年(一九二六)以来の研究の一部を公刊したのである

・昭和二十一年(一九四六)十二月、池田亀鑑校注「日本古典全書源氏物語」一刊行、同三十年十二月、七刊行完結、校異源氏を底本として僅に訂正を加え、簡潔な頭注を施し、解釈上の注意を加えた

・昭和二十六年(一九五一)池田亀鑑の「新講源氏物語」上巻刊行、五月下巻刊行
 七月、佐成謙譲太郎の「対訳源氏物語」巻一刊行、二十七年十二月にわたって、首書源氏物語の本文との口語対訳七巻、二十八年八月総覧刊行で完結、総覧の人名辞典は空前の行届いた述作である

・昭和二十八年(一九五三)六月、池田亀鑑の「源氏物語大成」第一巻刊行、三十一年十二月にわたって八巻完結、定価二万四千六百円、空前の大出版である。本文は前の校異源氏物語五冊を校異篇三巻にあて、索引は一般語彙、助詞助動詞、項目一覧の三巻に分ち、研究資料篇には古写本の伝流を概観し、青表紙、河内本、別本に分って現存重要諸本を解説し、本文研究に最も関係の深い資料として源氏釈、奥入、隆能源氏絵詞、古系図三種、弘安源氏論義、原中最秘抄、仙源抄を翻刻し、図録篇は、源氏物語に現われる生活様相を理解せしめるものを主として、原色版三葉、写真版大小約六百面を収めた

※昭和三十一年(一九五六)『源氏物語大成 巻七研究資料篇』に大澤本の解説

※昭和三十五年(一九六〇)『源氏物語事典』の「諸本解題」に大澤本の解説

※昭和五十五年秋(一九八〇)河内本『源氏物語』の古写本(「校異源氏物語」の改訂版稿本の底本?)中京大学に収蔵

※平成元〜十四年(一九八九)『源氏物語別本集成』全一五巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、おうふう)刊行開始

※平成十七年(二〇〇五)『源氏物語別本集成 続』全一五巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成二一年までに第七巻まで刊行、おうふう)刊行開始

※平成十七年(二〇〇五)十一月、大澤本の存在が確認される

※平成二十〇年(二〇〇八)七月、飯島本と大澤本がマスコミに取り上げられる

※平成二十〇年(二〇〇八)十二月、影印本飯島本刊行開始(平成二十一年九月、全一〇巻完結)

※平成二十一年(二〇〇九)十月、宇治市源氏物語ミュージアムで大澤本展示
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2009年12月24日

江戸漫歩(17)イブの新宿で一升瓶を抱える女

 新宿アルタの横にあるミーティングルームで、夕食抜きで夜まで、大事な打ち合わせ会がありました。
 真剣にお互いの意見を交換し、今後のための方策を検討しました。みんなの意見はまとまり、意義深い会合でした。前向きの話し合いなので、それだけにドッと疲れを感じましたが。

 今日はクリスマスイブです。久しぶりの新宿の夜です。しかし、世相を反映してか、人出は少ないように感じました。ほとんどが、若い人たちです。おじさんたちは、今日はどこへ行ったのでしょうか。行くところもなく、早々にご帰宅なのかもしれません。
 銀座へ行きたくなりました。しかし、そんな余裕はありません。

 東口広場では、キリスト教の組織がマイクで布教活動をしておられました。パフォーマンスの一環なのでしょうか、上半身裸のイエスキリストに扮する男の人が、人混みの中を掻き分けながら、マイクの話に合わせて歩き回っておられました。こんなキリスト教の布教活動ははじめてです。どんな組織なのでしょうか。
 私には、少し下品な見せ物に思われました。

 待ち合わせの場となっている狭い広場には、電飾を纏った木が人目を引いていました。しかし、かつてのようなサンタの帽子を被った人などは皆無です。若者が、いつものように何組もが屯している、という光景です。
 イブの明るさや賑やかさや華やぎは、ここでは微塵も感じられません。かつてのイブの喧噪が、本当に昔のように思えます。

 学生時代に、もっともそれは40年近くも前のことですが、新宿にはよく飲みに来ました。イブの日にも来ました。しかし、あのころは、訳もわからないままに、人々は雑然とした雑踏の中にクリスマスイブを感じていたと思います。とにかく、賑やかであれば、それだけで盛り上がっていたサンタの日でした。
 ケーキも、至る所で売っていました。しかし、今は、ケーキ屋さんの店先で売られています。至る所で、という光景はなくなったようです。

 たまたますれ違う女性が、一升瓶を胸に抱えて歩いて来るのに出くわしました。
 歌舞伎町に向かうところのようです。酔っているようには見えません。脚はしっかりしているし、目も前を見据えて歩いています。とにかく、大事そうに一升瓶を両手で抱え込んで、どこかを目指して人波を掻き分けながら、急ぎ足でした。
 一升瓶は、しっかりと胸に納まっていました。それが、幾分秘めやかな感じで、ビンの頸のあたりが見えるのです。

 あの人は、何だったのでしょうか。ワインでもシャンパンでもなく、紛れもなく日本酒なのです。
 まさか、宴会で酒がなくなったので買い出しに、ということはないでしょう。これから、差し入れとして届けるのでしょうか。
 なにはともあれ、アルタの横では一種人目を引く、気になる女性でした。これも、世相なのでしょうか。

 今夜はイブを祝して、アルタの裏の回転寿司屋へ行きました。
 カロリーコントロールのことがあるので、いつもは5皿でやめています。しかし、今日は9皿も食べてしまいました。
 ぜいたくなクリスマスイブです。
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2009年12月23日

読書雑記(16)『朝青龍はなぜ強いのか?』

 先日、東京外国語大学の大学院生であるA君から、武蔵境の駅前で食事をしながらモンゴルの情報をたくさん聞く機会を得ました。
 新年早々にモンゴル語訳『源氏物語』の調査でモンゴルへ行くにあたり、当該書の「桐壺」巻だけでも日本語にしてもらうことが、その日の面談の目的でした。
 その話の中で、『朝青龍はなぜ強いのか?』(宮脇淳子、WAC)という本がモンゴルのことを知るのに最適な本であることを教えてもらい、早速読みました。
 
 
 
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 本書は、モンゴルのことがよくわかります。ただし、題名が損をしていると思います。サブタイトルの「日本人のためのモンゴル学」というのが、本書の内容をストレートに表しています。いい本なのに、題名を見て通俗本として手にしない人が多いのではないでしょうか。
 私も、A君に紹介されなかったら、この題名を見ただけで読まなかったでしょう。

 本書は、第3章以降は、著者の専門ということもあるせいか、具体的でわかりやすい内容と展開になっています。しかし、それまでは、説明が中途半端で、話も飛び飛びで広がりすぎて、わかりにくいと感じました。申し訳ないのですが、前半の文章は、あまりうまくないのが残念です。いかにも、書くための文章が書かれています。

 以下、いくつか内容を引きます。

・「日本の平安朝に宮中でおこなわれたという射礼と騎射と相撲の三つの儀式は、現代モンゴルの祭典に見られる競馬と弓と相撲の三種の競技と、起源は同じであるといえる。」(33頁)

・「一九〇九年、初の常設相撲場となる「両国国技館」が落成した。つまりこのとき、相撲が、日本ではじめて国技となったわけである。
 しかし、現在の日本相撲協会は、一九二五年に設立された財団法人で、管轄官庁の文部科学省は、相撲を国技と認めていないのだ。だからいまでは、相撲は国技ではないのである。」(35頁)

・「自分独自の判断力があって運動能力に長けた男が、モンゴルの女から見ていい男なのだ。それでは、モンゴルでは、どういう女がいい女かというと、正確が強くてエネルギーのある女をモンゴル人は美人だという。」(65頁)

・「ウズベク人にサマルカンドを逐われて、アフガニスタンを経由しインド北部に入ったバーブルは、インドにムガール朝を建てた。「ムガール」というのは「モンゴル」をペルシア風に発音したことばである。
 北インドの標準語をウルドゥー語というが、ウルドゥーというのは、モンゴル帝国の君主の宮廷である大テント「オルド」のペルシア語読みで、宮廷で話されていたことば、という意味からきている。」(134頁)

・「日本の教科書に「女真」とあるのは、朝鮮と宋の書き方で、『遼史』『金史』『元史』『明史』は、みな「女直」と書いている。」(139頁)

・「モンゴル人は中国人が大嫌いである。」(159頁)

・「アルファベットの一種である横書きのチベット文字を利用して、これを縦書きにした新しいモンゴル文字を完成させた。これをパクパク文字と呼んでいる。」(169頁)

・「末松謙澄は、モンゴル史についても、ハワースの『モンゴル史』など英語の本を利用して詳しく述べるが、肝心のチンギス・ハーンと源義経が同一人物であるという論証に関しては、論拠は薄弱である。」(187頁)


 モンゴルを身近に感じることのできる本です。
 隣国理解に、最適な本です。
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2009年12月22日

谷崎全集読過(4)「秘密」「The Affair of Two Watches」

■「秘密」

 最初から英語が出てきます。 「obscure」
 次にカタカナ語と英熟語が。 「アーテイフイシヤルな、Made of lifeを」
 英語の書名も。 「The Sign of Four」「Murder,Considered as one of the fine arts」「Sexuology」
 映画の字幕の一部は3回も繰り返し出てきます。 「……Arrested at last.……」

 今に通ずる、コスプレ、ゲテモノ、伊達者、ニューハーフ、突っ張る若者が描かれていて、非常におもしろい物語です。一言で言えば「変態」です。しかし、そこが今となっては古色でカムフラージュされているように見えます。

 男が女物の着物を身につけ化粧をする場面は、これまた今でもあることです。いつの世も、という感があります。秘めやかなされるところに、その美しさがあるのです。
 入念に女装して夜道を歩くくだりは、不思議な世界が語られています。自己陶酔の世界です。「男」という秘密を隠すのです。そして、昔の女に出会い、再会に臨みます。
 いつしか、女の秘密が知りたくて、夢の中の女の秘密を知ることになります。知ると目が覚め、さらなる刺激を求めることになります。
 谷崎潤一郎らしい作品です。【4】


初出誌︰明治44年11月号「中央公論」



■「The Affair of Two Watches」

 意味不明な英語のタイトルと、冒頭近くの英単語「Tabaks-Collegium」。
 明治時代の学生の様子がわかります。しかし、ただそれだけの語り口に留まります。
 単なる身辺雑記で終わっているように思います。【1】


初出誌︰明治43年10月号「新思潮」
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2009年12月21日

名古屋で『源氏物語』の研究会

 週末の19日と20日は、名古屋の中京大学で『源氏物語』に関する研究会がありました。
 國學院大學の豊島秀範先生が主宰なさっている会で、第3年目の今回は第15回を数えるほどに、地道に研究成果を挙げている科研の研究会です。
 
 
 
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 今回は、こんなプログラムでした。


第14回 「源氏物語の本文資料に関する共同研究会」
 
日時︰12月19日(土)13:00〜
場所︰中京大学 名古屋キャンパス 5号館 572教室
内容
開会の辞         豊島秀範(國學院大學)
第1部 招待講演(13:00〜)  司会 伊藤鉄也(国文学研究資料館)
 岡嶌偉久子氏(天理大学附属天理図書館)
    「尾州家河内本源氏物語の書誌学的考察」
第2部 研究・報告1(15:20〜)       司会 菅原郁子
「河内本の翻刻・刊行とデータ処理の方法」
                     豊島秀範(國學院大學)
「河内本の翻刻と利用」         遠藤和夫(國學院大學)
「大島本「源氏物語」テキストデータベース化について」
                     渋谷栄一(高千穂大学)
「早蕨巻の本文と表現」         中村一夫(国士舘大学)
第3部 研究・報告2 (16:50〜)      司会 神田久義
「池田本手習巻とその本文」    大内英範(国文学研究資料館)
「河内方の二系統」       田坂憲二(群馬県立女子大学)
「大島本に関する報告」       伊藤鉄也(国文学研究資料館)
閉会の辞                 原 國人(中京大学)

 
 
 私は、次のような資料を配付し、「大島本に関する報告 −「初音」巻における傍記異文注記の本行本文への混入−」と題する発表をしました。

 その内容は、以下の通りです。

(1)『源氏物語』の本文は2種類に分別できること
(2)異文は、傍記が本行に混入することによって生じたものが多い。
(3)大島本は、傍記が混入している本文を伝えている。


◇資料(1) 『校異源氏物語』(昭和十七年、中央公論社)の「凡例」(『源氏物語大成』も同じ)
 一 本巻ノ大島本(飛鳥井雅康筆)ハ青表紙本デナク別本デアカラ、之ヲ底本トセズ、池田本ヲ底本トシタ。
  (中略)
 一 別本ノ大島本、七七三頁六行なむ一本おもふ(○○○○○)たのむとトアリ、七七五頁九行よはなれ一本かうさしのいともよはなれ(○○○○○○○○○○○○○○)たる
   トアル箇所ノ一本おもふ(○○○○○)及ビ一本かうさしのいともよはなれ(○○○○○○○○○○○○○○)ハ、大島本ノ書本ノ行間ニ存シタ書入ヲ、ソノ書写ニ当ツテ
   本行ニ混入シタモノト考ヘラレルガ、ココデハスベテ原本ノママトシタ。
   (注・校異には簡略を旨とする別本欄ということもあり、ミセケチやナゾリに関する記載はない。)
◇資料(2)
 参照資料 カラー図版(十三オ・十五ウ)
○該当箇所の翻字
 A 十三オ 「一本おもふたのむと」
   3行目 「一本」(ミセケチ〈朱〉、抹消〈墨〉)
       「ふ」(右下に「と」(朱・補入記号あり))
       「たのむと」(ミセケチ〈朱墨〉)
  【『日本古典文学全集 三』(小学館)】 底本・陽明文庫蔵後柏原院等筆写本
   ……あらじやはとなむ思ふ」とのたまふ。(一五〇頁)
  【『新編日本古典文学全集 3』(小学館)】 底本・天理大学付属天理図書館蔵池田本
   ……あらじやはとなん思ふ」とのたまふ。(一五七頁)
  『源氏物語別本集成 第六巻』231259-000
   ◆大島本 あらしやはとなむ一本おもふたのむとのたまふ
   ◆陽明本 あらしやはとの給
   ◆保坂本 あらしやはとなんたのんとのたまふ
   ◆東大本 あらしはやとなむたのむとの給ふ/は$、や+は、たのむ$おもふ
 B 十五ウ 「一本かうさしのいともよはなれ」
   6行目 「一本かうさしのいともよはなれ」(ミセケチ〈朱〉)
  【『日本古典文学全集 三』(小学館)】
   ……高巾子の世離れたるさま、(一五三頁)
  【『新編日本古典文学全集 3』(小学館)】
   ……高巾子の世離れたるさま、(一五九頁)
  『源氏物語別本集成 第六巻』231521-000
   ◆大島本  かうこむしのよはなれ一本かうさしのいともよはなれたる
   ◆陽明本  かうこしのよはなれたる
   ◆穂久邇本 かゝらむこの世はなれたる
   ◆前田本  かうこしの世はなれたる/こ$さ、の=いともイ、傍いともイ$

 
 
 わかりやすかったとの反応があったので、近いうちにまとめたいと思います。


 2日目は会議室で、今後の研究会のあり方と、平成22年度の活動について、具体的な話し合いをしました。

 その後、熱田神宮へ参拝しに行きました。
 
 
 
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 さらには、名古屋大学の先生のご自宅にお邪魔して、貴重な古典籍や屏風などを拝見しました。
 逸品揃いを堪能しました。

 2日目も、ハードな研究会となりました。しかし、充足感のある疲れなので、非常に気持ちのいいものです。

 さて、また明日から、書類作成と連絡に追われる、仕事仕事の日々となります。
 年末まで、ひた走りに走るしかありません。
posted by genjiito at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆源氏物語

2009年12月20日

アンビカさんへ−出雲の阿国レポート

 以下、インドから日本に国費留学生として国文学研究資料館に勉強をしに来ている、アンビカさんへの、私からの出雲レポートです。アンビカさんの近松門左衛門と歌舞伎の研究が、すばらしい成果となって実を結ぶことを願って記します。



 出雲大社から稲佐の浜へ向かってブラブラと歩いて行くと、出雲の阿国に関する遺跡に3つも出会います。

 出雲阿国というと、京都四条にある南座あたりを思い出す方が多いでしょう。しかし、この阿国の出自は、出雲大社の巫女だったようです。

 現在、大社の本殿の修理が進んでいます(昨日の写真参照)。
 江戸時代にも、大社の本殿を修復するために勧進の旅に出たのです。阿国は諸国を経巡り、京都などでは、男装の麗人よろしく、刀を差して踊っていたようです。そこから「傾き者」→「歌舞伎者」と言われるようになったとか。

 阿国は晩年は出雲に帰り、連歌などを楽しんだようです。その跡が「連歌庵」として遺っています。
 
 
 
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 道を隔てた向かい側には、「出雲阿国の墓」があります。これは、阿国の生家である中村家の隣に建てられています。
 平たい石なので、つい見過ごしてしまいそうです。
 
 
 
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 さらに浜へ向かって行くと、「出雲阿国終焉地の碑」があります。78歳の生涯だったようです。
 ここから見晴し台まで歩いて登る途中に、於国塔があります。これは、歌舞伎の名門・名優によって建てられたものです。
 
 
 
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 頂上の見晴し台からは、稲佐の浜と大社の街が開けてきます。絶景です。
 
 
 
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 稲佐の浜に出て、弁天島を間近に臨む浜辺では、親子連れがいました。
 
 
 
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 我が家の子どもたちも、毎週のようにどこかへ連れ出していました。こんな浜辺へ連れて行くと、大はしゃぎで走り回っていたことを思い出して、ついシャッターを切りました。

 来た道を戻ろうとすると、こんな標識が目の前にありました。
 
 
 
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 時間があれば、ここからさらに日御碕まで足を伸ばしたいところです。しかし、もう、バスターミナルから出雲空港へ向かって帰る時間です。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 古典文学

2009年12月19日

50年前の自分に会う

 親戚が出雲大社のすぐ前で「いなばや」という旅館を営んでいました。小泉八雲が執筆活動をした旅館ということや、皇室の宮様や勅使が宿舎にしておられたこともあり、格の高い旅館でした。
 しかし、このご時世に加え、経営者であったふたいとこの勝っちゃんが車イス生活になったことから、思い切って廃業したそうです。

 今回、幼友達でもある手銭さんの車で、大社の神域の中にある勝ちゃんの家まで連れて行ってもらいました。
 今は、出雲大社の本殿のすぐ横、社家通りといわれるところにある北島国造館の前で、リハビリ生活を送っておられます。
 車イスで迎えてもらいました。表情は穏やかでした。安心しました。
 この家は、もとは佐草という、これまた我々の親戚のものでした。佐草は、平安時代の文書や典籍などを伝える家だったそうです。もうそのすべてを処分されたとのことです。もう少し早く、私が古典文学に目覚めていたら、この佐草家の資料を活用できたのに、と思うと残念でなりません。

 亡母は、早くに両親を亡くしていることから、小さい時はこの出雲大社の「いなばや旅館」で育っています。
 私と姉は、父がシベリアから、母が満州から引き上げて来てから生まれています。
 父は復員後は、単身、大阪で人夫として千里丘陵に土を運んで固める仕事をしていました。
 私が小さかった頃は、父が大阪に出稼ぎに行っていた関係で、母と姉と私は、正月や夏祭りの頃には必ず「いなばや旅館」に泊まりに行きました。行くと必ず、小泉八雲が使っていたという「かの間」に寝泊まりしました。八雲の話も、たくさん聞いたように思いますが、すっかり忘れています。
 そして、いつも出雲大社の神域で遊んだものです。
 
 
 
091212honden修復中の本殿
 
 
 
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 今ある、この大国主命とイナバの白ウサギは当時はなかったはずです。しかし、白ウサギの話はよく聞きました。私がウサギ年生まれなので、余計に親近感がありました。正直に生きようと。

 境内の松と鳥居と大注連縄が、今でも眼に焼き付いています。
 日本の神道では、お詣りをするときは「2礼2拍手1礼」をすることになっています。しかし、出雲大社では「2礼4拍手1礼」だ、ということも、小さいときに教えられたことです。
 「神無月」も出雲では「神在月」と言うことも。

 我が家の子どもたちは、法隆寺の境内と平城京跡地と奈良公園の鹿さんたちと遊ばせました。自分が広い所で遊んだから、そうさせたのかもしれません。

 今回は、「いなばや旅館」の隣にある「大島屋」に泊まりました。
 
 
 
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 ここは、「いなばや旅館」に泊まっていた時に、よく使いに行かされたところです。お菓子や食器などを持って行ったりしました。そんな所に、50年も経ってから客として行ったのです。
 そういえば、日本旅館には久しぶりで泊まります。

 朝、隣の「いなばや旅館」の跡地を見に行きました。
 
 
 
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 更地になっていました。思い出の詰まっていた所なので、不思議な気持ちに包まれました。
 目の前の大きな石組みの前で映した写真が残っています。
 台風の時には、2階のガラス戸を押さえに、子供ながらも人足として駆り出されました。
 お正月には、玄関に「番内」という、秋田で言う「なまはげ」がやってきました。私は、いつも玄関先に押し出され、泣き騒いだことを覚えています。本当に怖かったのです。

 この散歩に出たとき、宿のカギ持ったままだったことを思い出したので、旅館へ返しに戻ったときでした。玄関口で「あんた てっちゃんだないけん?」と呼び止められました。
 杖をついたおばあさんが、ジーッと私の顔を覗き込んでこられます。
 「さだちゃんとこの」
 「ゆみちゃん しっとーけんね」

 「さだちゃん」とは私の母の、「ゆみちゃん」は姉の名前です。
 そして、私には「さだちゃん」の面影があるのだそうです。
 狐に摘まれたような話が、今、目の前で展開しかけているのです。

 「いなばや」にいたチカさんだとおっしゃいます。売店や雑用を、つい最近までしていたとのことでした。話をしていると、50年前の話に、思い当たることがたくさんあります。
 結婚せずにずっと1人だから、よかったらうちにおいで、と仰るので、たくさん話を聞きたくなったので、すぐ前の小道を入ったところのチカさんの家に上がり、コタツにあたりながら母との思い出話をたくさんしました。
 
 
 
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 お茶やお菓子やみかんが、たくさん出て来ました。
 話があまりに盛り上がったので、急に思いついて姉に電話をしました。姉はチカさんを覚えていて、電話をチカさんに替わると、懐かしそうな会話がしばらく続いていました。

 突然、50年前にタイムスリップです。

 私には覚えがないのですが、このチカさんに可愛がってもらっていたことがわかり、気持ちが温かくなってきました。
 こんな出会いがあるんですね。
 母や姉や私を愛おしく想ってくださっている方が、この遠く離れた出雲の地にいらっしゃったのです。そんな方が、この地上におられるとは、考えても見ませんでした。そのことを知り、人間の存在というものの不思議さを、改めて思いました。

 人の想いは、時間や空間を飛び越えるものなんですね。
posted by genjiito at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 回想追憶

2009年12月18日

手銭記念館の源氏絵屏風で教示を乞う

 今回の出雲行きは源氏絵を確認するためで、小雨の中を手銭記念館へ行きました。
 手銭記念館は、出雲大社から歩いて8分のところにあります。

 神門通りから神迎えの道へ左折して西に歩いてすぐのところに、我が家の親戚で「ヘルンの宿 いなばや旅館」があります。というよりも、今回はありました、ということになります。
 「いなばや旅館」は、当主であり私のふたいとこの勝ちゃんが病気をしたこともあり、近年廃業したのです。このことは、後で書きます。
 神迎えの道をさらに西に行くと、手銭記念館があります。
 
 
 
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 手銭記念館は、江戸時代の初めから今に至る11代の現当主まで、漢詩・俳句・茶道・華道を嗜む中で、たくさんの美術工芸品を守り伝えてきた家です。手銭家は、貴重な品々を保存・管理・公開するために、平成5年に美術館を開館なさいました。
 現在は、館長の手銭さんと奥様、そして学芸員の佐々木さんが協力して、2つの展示室で企画展などをなさっています。

 お茶をいだきながらの雑談のうち、手銭さんが「いなばや旅館」の勝ちゃんの小・中・高校の同級生だったことがわかりました。手銭さんは県会議員を、勝ちゃんは町会議員をしていました。また、奥様は我が家の親戚筋である佐草家の縁続きであることもわかりました。なんとも、奇遇が偶数倍に重なって、私の身を縛り付けてゆきます。親類縁者の網に絡め取られていく思いの中に置かれました。

 調査の前に、屏風が立てかけられた部屋の横で、こんな風に親族の話で盛り上がったのです。

 午前中は、白描の源氏絵が12枚貼られた屏風と、奈良絵本の烏帽子折草子が張り込まれた屏風、そして小振りの彩色源氏絵が描かれた屏風を調査しました。
 白描の源氏絵は、巻の特定に苦しむものがいくつかありました。
 手銭家のご了解を得ましたので、ここにその絵の中でもどのような場面かがわからなかったものを掲載します。少しでも何かがわかり、みなさんの研究や勉強のお役に立つのなら、という手銭さんのご厚意に甘えることにします。いずれも、左隻のものです。
 
 
 
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 奈良絵を貼った屏風は、同行の米子高専の原さんと、松江高専の小川さんが翻刻をはじめとする具体的な調査をすることになりました。この2人なら、きっとすばらしい報告をし、有益な成果を公表してくれるにちがいありません。
 私も、親類縁者の温かい気持ちを背景に、2人に協力していきたいと思います。
 と、このように書くことで、この若い学徒にプレッシャーを与えておきましょう。

 昼食は、一風変わった出雲蕎麦屋へ行きました。
 
 
 
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 外からの客は取らず、配達だけのソバ屋さんです。しかし、時には、食べられるようで、手銭さんが電話をして機会を作ってくださいました。
 確かに、変わったお店でした。ソバの注文の仕方から、食べ方に至るまで、念のいった解説付きでした。香りのいい、美味しいソバでした。

 午後は、屏風絵を確認しながら写真撮影をしました。
 ちょうど、学芸員の佐々木さんもお出でになったので、屏風の移動などを助けてもらいながら、撮影は順調に終わりました。
 その後、2種類の手鑑を拝見しました。ともに、由緒正しいお公家さんたちの名前が鑑定されて貼り込まれている、短冊や古筆を拝見しました。

 私は、『源氏物語』の第30巻「藤袴」の丁オモテ一葉に興味を持ちました。
 すでに原さんが著書『源氏物語と王朝文化誌史』(勉誠出版、2006年3月)で報告しておられます。私もこれを鎌倉時代の写しの断簡と見ました。同席の方々には、私なりの根拠を説明しました。しかし、こればかりは断定できません。その可能性が高いことを、文字の特徴や墨の色、そして丁末の文字の終わり方などから私見を聞いてもらいました。どなたかご覧になる機会がありましたら、ご教示いただければ幸いです。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆源氏物語

2009年12月17日

池田亀鑑ゆかりの石碑と資料

 池田亀鑑は、明治29年(1896)12月9日に、鳥取県日野郡福成村神戸上(かどのかみ、現在の日南町神戸上)に生まれました。私が現地を訪問したのは、偶然ですが誕生日の翌日だったことになります。本籍地は日吉村久古(くご、現在の岸本町久古313の1)です。池田家は代々亀右衛門を襲名していて、祖父が亀の一字を取って亀鑑(かめのり)と名付けたそうです。私は、亀鑑を「きかん」と発音していました。
 鳥取師範学校を卒業した大正5年(1916)から2年間、池田亀鑑は日野郡溝口尋常高等小学校の教師でした。黒い詰め襟の服に下駄履きという、我々が知る学者像からは想像もできない青年教師だったようです。高等科2年生と6年生の担任をしています。
 次の写真は、後に紹介する岸本町の公民館にあったものの一部です。
 
 
 
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 教え子たちが、池田亀鑑が愛した「学びて然かる後足らざるを知る」という座右の銘を刻み「池田亀鑑先生学恩碑」を建てました。碑文は自筆です。
 
 
 
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この地は、元の東京大学教授、文学博士、池田亀鑑先生の、大正五・六年、溝口尋常高等小学校訓導として、教育に熱情をささげられたところ、しかも、国文学界空前の偉業たる、先生の源氏物語研究の源は、じつにここに発したのである。いま、当時の教え子ら、先生を追慕し、その文字を刻み、学恩の碑を建てる。


 この碑は、伯備線の伯耆溝口駅に近い、町役場溝口分庁舎の前に建っています。
 たまたま、この時に車を運転してくださっていた大山町図書館長の船原さんが、役場の中へ入って何か資料がないかを聞いておられた時です。対応に出られた方が、偶然、図書館の司書の方で、船原館長の知り合いの方だったのです。お互いが、あなたは、ということで話が弾み、次に町立岸本中学校へ行くなら、その手前にある町立岸本公民館に池田亀鑑の資料があるはずだ、ということを教えてくださいました。そして、ご丁寧に、公民館に電話連絡をしてくださり、資料を用意しておいてもらえることになったのです。

 大急ぎで車を走らせて、町立岸本公民館へと急ぎました。
 職員の方は、卒業記念写真をはじめとして、池田亀鑑が編纂した尋常科五・六学年用の郷土読本や手紙などを、快く見せてくださいました。あいにく教育長が会議中のために席を外せないとのことで、自由にしばらく調査させていただきました。

 少し暗くなりはじめたので、これまた大急ぎで町立岸本中学校へと急ぎました。ここには、池田亀鑑の記念碑があるのです。
 しかし、校内のどこにも見あたりません。入口で先生に聞くと、校門の外にあるとのことで、日の暮れないうちに写真をとるために、またまた大急ぎで外へ出ました。
 ここには「生涯稽古」という文字が刻まれていました。
 
 
 
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 石碑の裏面には、次のように彫られています。

国文学者池田亀鑑博士の業績を顕彰し後進の鑑に之を建立す 碑文は博士が郷里に贈られた著書から直筆を転写す


 この碑まで案内してくださった先生は、校舎の中に池田亀鑑の書があるとのことで、またまた走って校舎に戻りました。
 それは、岸本町教育長の書に「桃園」という雅号印が捺されたものでした。「桃園」が池田亀鑑の雅号ということで、池田亀鑑に関係するものとされているようです。

 池田亀鑑の教え子や町民が、先生を誇りに思い慕っていることが、こうした碑文などが大切に守り伝えられていることから伝わって来ます。今後は、池田亀鑑のなした仕事を、学問的に評価する必要があると思います。
 私も、池田亀鑑が手がけた『源氏物語』の本文研究を追い、その成果を批判的に検証しているつもりです。そして、昭和13年以降の写本の整理が未完のままである現状をなんとかしようとして、『源氏物語別本集成』全15巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成元〜14年、おうふう)と、『源氏物語別本集成 続』全15巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成17〜刊行中、おうふう)を刊行しつづけています。池田亀鑑ができなかったことに着手しているわけです。
 しかし、まだまだ道半ば、というところです。

 なお、池田亀鑑は、大正5・6年の2年間だけ溝口尋常高等小学校訓導をした後、この鳥取の地を離れて東京高等師範学校へと移り、さらに東京大学へと進んで研究者として歩んで行きます。
 日南町の図書館で入手した『日南町史』(全3冊)には、池田亀鑑については簡略な説明のままです。この次に補訂版を作成される時には、さらに詳細な解説がなされることでしょう。

 それにしても、今回の日南町を経巡る旅は、「人」に恵まれ「縁」というものを実感させてくれるものでした。
 懇切丁寧に案内してくださった足羽さん、最初に情報をくださった久代さん、運転手に徹してくださった船原さんに、心より感謝いたします。ありがとうございました。

 1日で、こんなにたくさんの人や物に出会えたことは、まさに奇跡としか言いようがありません。
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2009年12月16日

池田亀鑑ゆかりの日南町

 久代安敏さんの母校は旧石見東小学校だそうです。
 
 
 
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 この石見東小学校の校門を上った正面に、池田亀鑑の「学才にあらず 閥派にあらず たゞ至誠にあり」という言葉を刻んだ碑が建っています。昭和43年(1968)の建立だそうです。
 そして先月の11月3日に、新しく池田亀鑑の略歴を刻んだ石碑がこの横に建てられ、除幕式が執り行われました。この碑には、池田亀鑑の写真も添えてあります。
 
 
 
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 建碑にあたっては、「池田亀鑑文学碑を守る会」が町内外の230名から協賛を得られたのだそうです。
 この碑が建てられているのは、かつて池田亀鑑の両親が教鞭をとったこの小学校の敷地の入口近くです。
 
 
 
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 しかし、その小学校は最近閉校となり、2階のガラス窓には、

あり□□□ さよ□□□ □□東小学□


という、模造紙に手書きされた文字が残っています。しかも、その内の何枚かは、すでに剥がれ落ちていました。

 寂しさを胸に押し留めて見上げずにはいられない、時の流れを痛感する光景です。

 なお、池田亀鑑が生まれたこの神戸上のことは、随筆集『花を折る』に語られています。
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2009年12月15日

日南町議の久代氏と思わず握手

 日南町の役場は、立派な木で組み上げられていました。庁舎というに相応しい建物です。
 その広いロビーで、私は町会議員の久代安敏さんを待っていました。

 しばらくしてから、背後で「長らくお待たせしてすみません」という優しい声が耳に届きました。私が振り向くと同時に、思わずお互いに手をしっかりと握りあっていました。
 よく来て下さいました、来ましたよ、いつか来られるだろうと思っていました、早かったでしょ、と。

 初対面です。しかし、相手のことはブログを通してよく知っています。お互いに。日常の思いを、包み隠さず何でもブログに書いているので、何もかもわかった気でいます。
 旧知の仲のように、手を握りながら話し出しました。止まりません。しばらく、立ち話が続きました。

 日南町総合文化センターで足羽さんの案内で松本清張と井上靖の展示を見る前に、町議をしておられる久代さんにお目にかかれないかを聞いてもらいました。しかし、その日から日南町議会12月定例会が始まったとのことで、会議場に入っておられたのです。今日は、一般質問の質問者だとも。
 文化センターを出て足羽さんの車で移動する時に、再度様子を見に行きました。しかし、まだ会議中でした。ロビーには、大きなモニタに会議場が映されていました。質疑が続いていました。
 松本清張の文学碑を見た後、井上靖の文学碑を見に行く途中にも立ち寄りました。しかし、その時も、まだ会議は続いていました。

 池田亀鑑の記念碑を見た後、日南町を後にする際、一応念のために役場へ行ってみました。すると、今、会議が終わったばかりだということでした。
 事務の方に連絡をとってもらうと、部屋におられないとのことです。しばらくしてから、その方が上へ探しに行ってくださいました。
 私は、久代さんが来訪に気づかずにお帰りにならないかと気を揉みながら、出口付近を見張っていました。そんな中で、やっとご本人と出会えたのです。

 久代さんとのことの起こりは、私のブログにコメントを付けてくださったことからです。

 先月の11月4日に、私は「予期せぬ夜の祝祭」という題でブログを書きました。その中で、松本清張の『ゼロの焦点』について触れました。その記事が、本当に偶然ですが、久代さんの目に止まったのです。

 久代さんが下さったコメントは以下のものです。

 たまたま11月3日に池田亀鑑の略歴の碑の除幕式をしたことで、あなたのブログにであいました。わたしの町には井上靖と松本清張と池田亀鑑の文学碑があります。清張さんは生誕100年で町がいろいろ取り組んでいます。

 井上靖は、妻と子どもさんを鳥取県・日南町に疎開させていたことが縁で、松本清張は、父峯太郎の生まれた町ということで、池田亀鑑は、鳥取県日南町神戸上というところで生まれたことで、3氏の碑があります。またよろしかったらお出かけください。



 これに対して、私は以下の返事を認めました。

 コメントをありがとうございます。
 ブログを楽しく拝見しました。

 私が好きな井上靖、松本清張、そして仕事に直結する池田亀鑑と、魅力的な町ですね。

 お訪ねする機会を探してみます。

 池田亀鑑先生の除幕式というのは、どのようなものだったのでしょうか。

 よろしかったら、もっと詳しく教えていただけると幸いです。



 久代さんは、さらに詳しく教えてくださいました。

 わたしの町ではたいへんな過疎と少子化で、1年に25人くらいしか子どもが生まれないのです。で、今春町内6つの小学校が1校に統合したのです。

 池田亀鑑文学碑は、先生が生誕され、ご両親が勤めていられた石見東小学校の校庭の角に、昭和43年に「学才にあらず 閥派にあらず たゞ至誠にあり」の碑が建立されていたのですが、先生の略歴がちょっと粗末なものでした。小学校が統合してもこの文学碑はしっかり保存して継承しようということで、略歴を石に刻んだのです。その除幕式でした。

 これから先生のことを、先生の著されたものを勉強しようという計画もしています。まぁこんなところです。


池田亀鑑先生略歴

池田亀鑑先生は、明治二十九年十二月九日厳父宏文慈母とらの子として神戸上に生まれる。幾多の困苦と欠乏に耐え、よく努力し鳥取師範を経て東京高等師範に学び東京帝国大学文学部国文科を卒業する。女子学習院、第一高等学校、二松学舎、慶応義塾、早稲田、帝国女子専門学校、東洋等各大学の講師又は助教授。大正大学、東京大学の教授等を歴任し、昭和二十二年には文学博士号を授与される。中世古典文学、特に源氏物語の研究においては斯界の第一人者と称せられ、爾後の指針とされた。著書は源氏物語大成全八巻他多数。毎日学術奨励賞、朝日文化賞等を受賞する。昭和三十一年十二月十九日病を得て東京に没す。行年六十才。その悲報に衝撃を受けた厳父宏文氏も同日逝去される。先生のふるさと神戸上への想いは随筆集「花を折る」等で熱く述べられている。尚文学碑は、昭和四十三年十二月九日建立除幕された。

          池田亀鑑文学碑を守る会



このような略歴を刻みました。



 以下、私のお礼の返信です。

 詳細なご報告、ありがとうございました。

 池田亀鑑先生の顕彰は、すばらしいことだと思います。

 地元のみなさまが、松本清張氏・井上靖氏とともに、池田亀鑑先生のなさったお仕事を理解されることは、大切なことですね。日本の古典文学研究においては、重要な役割をなさった先生ですから。

 特に、『源氏物語』の本文を整理された功績は、偉大なものです。「中世古典文学」とあるのは、正確には「中古古典文学」でしょうか。

 池田亀鑑先生の足跡を確認する作業などは、どなたかなさっているのでしょうか。

 『源氏物語大成』という偉業の背景も、まだ確認されていません。

 今後は、池田亀鑑先生の業績の意義を再確認する研究が、若い人によってなされると思います。

 ますますのご活躍を、楽しみにしています。



 このようなやりとりを経て、この日、感動的ともいえる顔合わせとなったのです。
 日南町へ行く2日前にメールを差し上げていたのですが、一般質問の準備でお忙しい所だったようです。

 この日は、私もまだ池田亀鑑の記念碑などを尋ね歩く予定があったので、早々に駐車場でお別れしました。またの再開を約して。

 その日は米子のホテルで泊まりました。翌朝早々に、久代さんからこんなメールが届きました。

 いつか近いうちに来られるだろうな、と思っていましたが、まさか昨日お会いできるとは思いませんでした。

 とてもうれしかったです。

 米子の井上靖記念館にも行かれたのですね。

 国文学研究資料館のホームページも拝見しました。

 池田亀鑑の碑と私の家は指呼の間です。今後の交流を楽しみにしています。

 ご活躍を祈念しています。とりあえずはお礼まで。



 以下、私の返信です。

 ご丁寧に、ありがとうございます。

 お目にかかることができ、私も安堵しました。

 日南町はいい町ですね。野分の館からの景色が印象的でした。

 あれから、溝口と岸本町にある池田亀鑑の碑を2箇所見ながら米子へ帰りました。

 岸本町の公民館では、池田亀鑑の写真などを拝見しました。

 詳しい話は伺えませんでしたが、たくさんのことを知ることが出来ました。

 感謝感謝の一日となりました。

 今日は、大山町の図書館で町民の方に『源氏物語』のお話をし、私が生まれた出雲市へ向かいます。

 久代さんのおかげで、日南町は思い出深い地となりました。

 再訪の機会を、今から楽しみにしています。

 ますますのご活躍を。



 人と人との出会いの素晴らしさを、温かい思いで噛みしめています。
 自分がやりたいことをする中で、自分の中には何もなくても、ありのままの自分をさらけ出すことで、こうした邂逅があるのです。
 縁というものを、大切に守り育てていきたいという思いを、いまさらながら強くしています。
posted by genjiito at 01:13| Comment(1) | TrackBack(0) | ブラリと

2009年12月14日

井上靖ゆかりの日南町(2の2)

 井上靖が認めた文学碑の横に、奥さんのふみさんが書かれた井上靖の詩碑が、並んで建っています。
 
 
 
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 その左の少し小高いところに、井上靖記念館「野分の館」が建っています。
 『通夜の客』には、次のようにあります。

 歩いてゆく道の途中、時々、行手から野分が吹いて来ました。風道に立つと、二人は立止まって背を向けて風をやり過しました。

(中略)

 また野分が過ぎて行きました。風に吹き運ばれるように、あなたは合外套の裾をばたつかせながら向うへ歩いて行かれました。(『井上靖全集』第1巻557頁〜579頁)


 
 
 
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 この記念館が無人の設備として運営されていることに驚きました。地元の人たちが、朝カギを開け、夕方になると閉めに来られるのです。その間は、受付や案内人はいません。そして、いつもきれいな状態で健全に保たれているのです。いろいろと苦労はあるのでしょうが、観光施設としては理想的な運営と言えるでしょう。

 中の展示室には、ぐるりと取り巻くように詳細な年譜が揚がっています。たくさんの写真で、井上靖という作家を語っています。原稿や著作物なども、所狭しと並んでいます。
 
 
 

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 情報過多のきらいがあります。しかし、これは地元の方々の井上靖に対する篤い思いの表れであることが、見ていくうちに伝わってきます。心のこもった展示室になっています。

 町として井上靖に名誉町民の称号を贈ったときのものが飾られています。
 
 
 
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 敬意の発露としての称号なのです。
 ちなみに、松本清張にも名誉町民の称号を計画されていたそうです。しかし、清張は断ったとのことです。清張にとっての日南町が何であったのかをしる、大きな手がかりになることだと思います。自分の出自に関するモヤモヤが、町からの申し出を振り切ったのです。そうした清張の心の内面を、もっと掘り下げて人間清張を見つめていきたいものです。そのカギは、日南町にあると、私は思っています。

 井上靖の作品は、たくさんの言語で翻訳されています。その一端が、こうして展示されています。
 
 
 
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 この、井上靖の外国語訳の実態は、今後の新しいテーマになることでしょう。私が『源氏物語』の翻訳本の整理をしているように、誰かが井上靖の翻訳本を整理し、その種々相を考察していくべきです。すでにいくつか成果があることは知っています。しかし、多国語翻訳の実態と、言葉で移し換えられた文化の移植にまつまる問題は、まだまだ新しくて魅力的な研究課題です。

 野分の館の前の道から、F村とされた集落を見下ろしました。
 
 
 
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 やはり、『通夜の客』をもう一度読むことは、しばらくは控えましょう。

 作品の舞台が、さらなるイメージをふくらませてくれることが期待できる、そんな日南町が今もそのままにあることは、ホッとするとともに、私にとっては恐ろしいことです。作家の作品世界とコラボレーションできる、こんなすばらしい景色はありません。それを残す場所を発見した気持ちになりました。しかし、やはり怖い場所になりました。
 そう言いながらも、またこの地を訪れるはずです。
 日南町は、魅力的な所であることを、知ってしまったからです。
posted by genjiito at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 井上靖卒読

2009年12月13日

井上靖ゆかりの日南町(2の1)

 日南町文化総合センターには、松本清張だけでなく、井上靖の資料と展示室もあります。
 図書館における井上靖の著書コーナーは、前回の松本清張の報告の中で紹介した通りです。
 井上靖の展示室は、その入口の左横から、隣の松本清張の展示室の一部が見えています。
 
 
 
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 井上靖の展示室の奥に、書斎を復元したものがあります。東京にあった書斎をよく見て作ったものだそうです。
 
 
 
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 米子の井上靖記念館にあった書斎と、どのような関係なのかはわかりませんが、井上靖らしさの感じられる一室になっています。
 なお、隣の松本清張の展示室の奥にも、清張の応接室を見習った部屋がありました。清張のことば通りに著書をもらってこの応接室に並べるはずだったそうです。しかし、願いは叶わないままになったとのことで、残念そうでした。

 さて、日南町の井上靖の書斎に、米子の記念館にあった椅子とよく似た籐の椅子(上掲写真右下)がありました。これも、何か訳があってのものなのでしょうか。どなたか、教えて下さい。

 部屋の隅に、『通夜の客』に出てくる曽根の家の模型がありました。
 
 
 
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 聞きそびれたのですが、どのような由来や経緯があってのものなのか、これまた、どなかた教えて下さい。

 足羽さんの車で、山深い岡山県との分水嶺に行きました。
 標識にも、「水と緑と文学のふるさと」とあります。
 
 
 
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 ここから鳥取側に少し戻ったところにあるJR上石見駅は、井上靖の『通夜の客』で知られる所です。
 
 
 
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 この小説は、ずっといつまでも記憶に残る作品です。私が一読を勧める一つです。回想形式の手紙が、何度読んでも心に沁みます。主人公の妻に宛てた愛人の手紙は、本当に人間の心を掴んで離さないものとなっています。

 『通夜の客』には、次のように書かれています。

 あの(*注︰主人公新津のお通夜の)翌日夕方の急行で東京を立ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見の小さくて清潔なプラットホームに降り立った時はもう暮方でした。それから二里の山道を、いつかあなたが駱駝の瘤とお呼びになった小さい峠を二つ越えて歩いて、二十何時間目にこの山脈の尾根の小さいF村のわたしたちの家に帰って参りました。

(中略)

 鳥取県も岡山県に近い海抜1200メートルのこの高原の小さな村は、考えてみると、あなたと私とがともかくも一緒に住むことを許された天が下ただ一つの自由な木蔭でした。

(中略)

 明日の夕方、私は思い出多い土地を引き上げ、夜の汽車で上石見を立って、こんどは山陰線廻りで(あなたがいつぞやきれいだと仰った暁方の山陰の海が見たくて)東京へ向かうつもりです。

(中略)

 村を出発するのは午後四時と決めていた。上石見駅八時の伯備線に乗り、伯耆大山で十時二十分の山陰線に乗り換える予定だった。上石見まで二里の山道を歩かねばならないが、女の足でゆっくり歩いて三時間かかったとしても、上石見駅でたっぷり一時間の余裕のある勘定だった。

(中略)

 私は愛した、私は愛したと何ものかにぶつけるように心の中に叫びながら、再び烈しくなった雨の中をよろめきつつ遠い上石見の灯に向かって歩き出したのであった。(『井上靖全集』第1巻557頁〜579頁)

 
 
 

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 この作品に出てくるF村は、実際には井上靖の妻と子どもたちが疎開の地として住んでいたところである神福(旧福栄村)が舞台として活用されています。

 『通夜の客』をもう一度読みたくなりました。しかし、実際にこの舞台となったF村を見てしまうと、話がさらにリアルに読めてしまい、怖い気がするのです。しばらくは読まないことにしましょう。胸が締め付けられるほど完成度の高い小説ですから。

 このF村の入口辺りに、井上靖文学碑の場所を示す標識が立っています。
 
 
 
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(「井上靖ゆかりの日南町(2の1)」につづく)
posted by genjiito at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 井上靖卒読

2009年12月12日

出雲の神はネットと無縁

出雲大社に来ました。
縁結びの神様は、インターネットとは無縁でした。
宿に荷物をおかせてもらい、すぐに屏風や手鑑の調査に没頭し、夜分に帰って来ました。そして、MacBook Air という愛用のノートパソコンを開いて、ネットにつなげようとしました。

無線LANのパスワードを聞いて来るので、宿の名前などを入れました。しかし、ことごとくはじかれます。

フロントへマックを持って行って聞くと、今度は電波を感知しません。この宿は、インターネットの設備がないので、使えないとのことです。
部屋で電波を感知していたのは、ノラ電波のようです。

あいだに入った方には、ネットのある所を頼んだのですが、もうどうしようもありません。

仕方がないので、今日はiPhoneで、これだけ書いて閉じます。

明日以降に、今日の報告や、井上靖と池田亀鑑のことを書きましょう。
posted by genjiito at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ブラリと

2009年12月11日

松本清張ゆかりの日南町

 今年は、松本清張生誕100年記念の年です。

 清張ゆかりの日南町でも、さまざまな取り組みがなされています。

 日南町は、鳥取県の最南端で、岡山、広島、島根の県境に位置する、山峡の町です。米子からは、岡山に向かって一路南へ1時間半のところにあります。


 「松本清張生誕100年記念事業実行委員会」の会長である足羽隆さんに、早朝より昼過ぎまで、お昼ご飯抜きで町内を案内してもらいました。ご高齢の足羽さんご自身が車を運転しての案内だったので、お心遣いが身にしみました。ありがとうございます。


 松本清張、井上靖、池田亀鑑の3人の、ゆかりの地巡りです。

 たんさんの収穫がありました。あまりにも多いので、少しずつ報告します。


 日南町総合文化センターでは、松本清張の展示がありました。好評のため、会期を1ヶ月半も延長しての開催です。

 
 
 
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 清張の生い立ちについて、足羽さんからいろいろと興味深いことを伺いました。

 祖父や祖母について、まだ確認されていないことが多々あるようです。清張文学の現状について疎い私ですが、今後の研究が期待されるように思いました。


 この施設には、図書館があり、松本清張と井上靖の本を集めたコーナーがありました。

 
 
 
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 共に多作の作家なので、立派なコーナーになっています。

 地元新聞の切り抜きなど、貴重な資料も多く、たくさんコピーさせていただきました。

 そして、『日南町史』(全3冊)も購入しました。松本清張については、今後の補訂版でその出生にまつわる項目が詳細に記されることを望みます。これは、足羽さんのご健筆に待ちたいと思います。



 松本清張の資料展は、通路を利用してのパネル展示が主体です。

 入口の幟で白い方は、北九州市でのイベントに使われたものを譲り受けられたそうです。それに加えて、日南町で作成されたのが橙色です。

 
 
 
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 パネル展示も、北九州市の図録から転載のものがいくつかありました。このあたりが、この日南町と松本清張の接点が緩いところです。しかし、清張自身も若いときにこの地をそっと訪れているのです。自分の家系についての興味を掻き立てる問題があったようなので、そのあたりから日南町と松本清張の接点を強調されたらいいのではないでしょうか。清張作品を形成する背景にあるもとして、この町の存在は大きいと思います。


 清張の文学碑は、整備されたところにあります。

 
 
 
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 今回新たに建立されたものは、文学碑の左下にあります。

 
 
 
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 碑の裏側に記された説明がわかりにくいので、新たに説明板を設置されたのです。


 清張の祖父たちがいた地域は、清張がこっそりと来てスケッチを残した時のままに、今も時間が停まったようにそのままです。

 
 
 
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 伝記研究などには、いろいろな問題が関係してきます。むつかしいことも多いでしょうが、作品理解には重要なことが多いので、今後の進展に待ちたいと思います。


 今回伺った話によるかぎりでは、この墓石に刻まれた字句の解釈から再スタートすると、興味深いと思われます。

 
 
 
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 この分野に疎いのですが、すでに研究があるのであれば私も立ち寄ってみたい気になりました。

 
 
 
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 地図の中央左寄りにある松本清張の文学碑から、今度はその右下にある井上靖文学碑へと移動します。

 
 なお、昭和35年の作家所得番付によると、第1位が松本清張(3842万円)です。まだ、作家歴5年目にして、これだけの売れっ子作家になったのです。そして、第7位に井上靖(2397万円)がランクしています。

 この2大作家と縁の深い日南町は、この文化遺産を大切にしていかれることでしょう。これからが楽しみです。
posted by genjiito at 07:54| Comment(0) | ブラリと

2009年12月10日

モンゴルと井上靖の記念館へ

 少し余裕を持って米子に来たので、空港の近くにある「アジア博物館・井上靖記念館」へ立ち寄りました。
 
 
 
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 受付で、最初に井上靖記念館からホテルへ行くための、米子駅へ行く方法を聞きました。
 歩いて20分あるが、JR線から行くのがいいとのことでした。
 そして、ご丁寧に、ネットからJRの時刻表を印刷してくださいました。

 2時間はタップリと博物館・記念館を見られます。荷物を事務所に預けて、ペルシャ館、モンゴル館、井上靖記念館、そしてモンゴルの住居であるゲルを見ました。

 数年前に一通り見ているので、今回はピンポイントで回りました。
 前回のブログの記事は、当時のサーバーがクラッシュしたために、今では読めないものとなっています。いつか、あのときの記事を再現したいと思っています。ただし、まったく手元にメモもないので、諦めています。
 今回の再訪で、その欠を埋めることにします。

 まずは、ペルシャ館です。
 ユーラシアの全体像を確認しました。
 
 
 
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 今回は、モンゴル館を楽しみにして来ました。来月モンゴルに行くので、イメージトレーニングです。
 
 
 
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 やはり、期待を裏切らない展示でした。
 ただ、欲を言えば、2階のテラスに並べられていた資料は、これでもかと手持ちのものを見せびらかすように展示されていました。確かに、その資料を収集された春日氏に敬意は表します。しかし、展示となると、なんでも見せたらいい、というのは違います。やはり、構成を考え、展示による効果を研究すべきでしょう。見せ方の問題です。情報過多で、私はすぐに疲れてしまい、ほとんどを流して見てしまいました。
 知りたいことはいっぱいあったのですが、疲れる展示なのです。末松謙澄のチンギスハンは源義経だったという説に関する資料は、貴重だと思います。しかし、あれだけのスペースにぎっしりと本を詰め込んでは、見る人は途方に暮れます。

 情報は、たくさん示せばいいと言うのではないと思います。整理して必要なものだけを展示し、あとは資料室なり資料コーナーに一括してまとめることも考えられます。さらに知りたい方のための場所を、どこかに作ってはどうでしょうか。
 僭越ながら、学芸員の方の奮闘に期待したいと思います。

 井上靖記念館は、前回よりもゆっくりと見ました。
 
 
 
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 『蒼き狼』のモンゴル語訳(1981年)は、モンゴルとの出版協定が結ばれていなかったために、中国語訳からの重版だ、ということを知りました。
 来月、モンゴルに行くので、この点を確認し、再度日本語からモンゴル語への翻訳をお願いして来たいと思います。

 裏から、井上靖の書斎の復元を見ることができました。中からは写真が撮れなかったので、外からのものを添えます。
 
 
 
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 モンゴルの住居であるゲルの中に入りました。
 
 
 
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 この前も入ったと思います。しかし、今回は近々行くので、気持ちが違います。意外に広いのに驚きました。
 申し訳ないのですが、ゲルの中の匂いが気になりました。何とかした方がいいと思います。

 事務所に預けた荷物を受け取り、ブラブラと大門に向かってキャリーバックを曳き出したとき、後ろから呼び止められました。車で駅まで送ってあげましょう、と。
 私が、よほどみすぼらしい風体だったのでしょうか。気の毒に思われたようです。
 小さな軽自動車ですみません、と言いながら、アジア博物館と井上靖記念館の名前が入った車を走らせてくださいました。
 1キロくらいだったでしょうか。助手席に乗せてもらい、運転してくださる男性と、モンゴルの話や平山郁夫さんがなくなられた話などを、短い時間でしたがしました。
 ありがたいことです。優しく、気さくな方でした。お名前も伺わず、失礼をしました。ここに、感謝の気持ちを記します。

 着いた駅は無人駅です。懐かしい想いに包まれました。
 
 
 
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 ホームの隅にある乗車駅証明書という紙片をボタンを押してもらってから乗ります。
 しばらくしてから来た妖怪電車で、米子駅へひた走ります。
 
 
 
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 そして、ホテルに荷物を置いて、すぐにバスで皆生温泉へ。
 
 
 
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 今夜の打ち合わせの前に、せっかくなので寸暇を惜しんで温泉三昧です。
 バスで18分の近さです。抹茶の湯が快適でした。

 米子に戻るバスのことを聞いた、温泉の受付の方の親切なこと。
 地方と都会の、人間の接し方の違いを痛感しました。時間と人の繋がりが、社会の仕組みの中で違うので、どうしようもない現実です。しかし、こうした情を基準にした人間関係は、日本人として今後とも大切にしていきたいものです。

 ホテルに帰ると、今回お世話になるH氏がロビーで待っていてくれました。こうしたゆとりが、日頃は時間に追われてギリギリの生活をしている私が、つい忘れている所であることを痛感しました。

 魚を肴にお酒を飲みながら、研究を続ける意義などを拙い経験の話を交えて話しました。若い人は、とにかくやりたいことを後先考えずにやればいいと思っています。考えても仕方がないのですから。結果は考えないことです。
 私もそうですが、みんな、いろいろな想いで、悩みながら生きています。
 恵まれた環境で、研究三昧の人など、限られています。私も、周りの人から言われるような研究三昧とは、本当にほど遠い環境にあります。事務職員なのです。なかなかわかってもらえない所ですが……。

 第三者にわかってもらえることを望むことが、所詮は意味のないことです。
 自分が納得できることを日々しているか、ということが大切だと思います。
 結果は後からついてくるものです、よネ。
posted by genjiito at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 井上靖卒読

2009年12月09日

米子への空路でツラツラと

 米子へ行くために、早朝、羽田に向かいました。
 成田から飛行機に乗ることが多いので、久しぶりのモノレールです。韓国に行った時以来です。それにしても、すごいスピードに驚きました。地下鉄なみの猛スピードです。
 コンクリートの柱に跨がって走る移動物体が、こんなに高速でいいのでしょうか。技術的には問題ないのでしょう。しかし、これは変です。モノレールはモノレールらしく、カタコトカタコト走るべきです。

 羽田の出発階で、颯爽とキャリングケースを引いてゲートへ向かう女性がいました。
 ところが、なにやら、カッコいいコートから、ハラリと落ちたものがありました。すれ違った男性が、何だろうと拾い上げ、すぐにサッサと行く女性を追いかけて行きます。女性のスラリとした脚が早いので、なかなか追いつきません。ドラマのワンシーンです。プライドだけで間抜けな女と、ただただ実直な男の出会いの場面です。落とし物は搭乗券のようでした。その後、どうなったのでしょうか。
 懸命に追いかけて行って、落とし物の搭乗券を差し出す男。そうっ、と言って受け取り、お礼もそこそこにゲートへ向かう女。その女を、何となく見送る男。女は振り向きもしない。
 私は、そんなシナリオを描きました。勝手な想像です。お二人には、申し訳ないのですが……。

 搭乗までの間に、搭乗機と座席のシート番号を印字した紙片を、なんと3回も受け取りました。手元には、予約時のプリントもあります。都合、4枚もあります。ご丁寧に、こんなにたくさんは要りません。確認のためなのでしょう。しかし、紙の無駄だし、度々の印字機器の導入からメンテナンスに至るまで、これは大変でしょう。事業見直して仕分けが叫ばれている今、一考の余地がありそうです。

 機内で、シートベルトのサインが消えてから、このメモをiPhoneに入力し出した時でした。サッとアテンダントの方が寄って来られ、「お客さま」と声をかけてiPhoneの画面をご覧になりました。そして、iPhoneの画面左上の飛行機マークを確認すると、「失礼しました」と……。素早い対応で、好感が持てました。

 つい、胸の名札を見ると、忘れられない名前でした。
 かつて、阪神タイガースに源五郎丸というピッチャーがいました。それに似た名前でした。名前とその爽やかで可愛い女性のイメージがあまりにも落差があるので、苗字を変えた方が、と要らぬ気遣いをしてしまいました。テキパキとした、気持ちのいいアテンダントの方でした。

 倒産寸前のJALのアテンダントの方は、少し年齢が高いように思います。そして、愛想がいいようですが、作られたイメージがあります。笑顔が営業用に感じられます。ただし、安心感はあります。
 今回もそうでしたが、ANAのアテンダントの方は、若いなりに気配りは懸命にしているという感じの中で、清涼感があるように思います。企業の姿勢ではないでしょうか。
 あくまでも、個人的な偏見ですが……。
posted by genjiito at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ブラリと

2009年12月08日

谷崎全集読過(3)「幇間」「飇風」

■「幇間」

 です・ます調の文体に、アレッと思いました。

 罪のない道楽人の桜井さんは、好きなことをして、いつもみんなに可愛がられる質の男でした。幇間になっても、人が喜ぶことに快感を覚えるのです。
 好きなった芸者の梅吉の言いなりに、欺された振りをした後も、何食わぬ顔で戯けてみせます。まさに、プロです。
 自分を捨てて人のために何でもする心意気が、気持ちよい程に伝わって来ます。

 人間、徹することの素晴らしさが描かれています。
 テンポのいい軽快な語り口に、つい読まされました。
 最後に、Professional という英語が出てきます。【5】

初出誌︰明治44年9月号「スバル」


■「飇風」

 始まってすぐに、「○○的にも女は常に勝ち誇つて、」と伏字がでてきます。戸惑いました。谷崎潤一郎全集に収録されているのに、何だろうと。
 注があり、そこには「○○は初出雑誌に拠る」とあります。それ以上には、説明はありません。
 一番字数の多い伏字は、○が47個も並びます。ここまでくると、穴埋め問題や虫食いを推測する次元に引きずり込まれます。それでいて、話の内容はよくわかります。かえって、読者は緊張するのです。

 こうして、何だろうと思いながら読み進むのも、結構楽しめます。厳しい検閲による発売禁止という時代背景が想像されます。しかし、それよりも、本来作者が書きたかったであろう言葉を推測するのが、この作品をおもしろく読む秘訣です。

 また、この作品でも英語が随所に出てきます。
 erotic , abuse , voluptuous , desire , dead white , illusion , attractive , shock , trick と、多彩です。

 性的青年が禁欲を己に強いる東北旅行のくだりも、楽しく読めます。1人の女のために節制した男の物語は、意外な展開が待っています。
 ただし、いかにも作り話というのが見え透いているところが、少し気になりました。【3】


初出誌︰明治44年10月号「三田文学」
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 谷崎全集読過

2009年12月07日

心身(46)車中でのポリ袋の音

始発の新幹線で上京しました。
グッスリと寝ていた時です。後ろの席から聞こえるバリバリ〜ガサゴソ〜パリパリという音で、熟睡が打ち切りとなりました。

名古屋を出てしばらくたったころでしょうか。
ず〜ッと聞こえていたように思います。
いったい何をしているのか、周波数の高い音は、止みそうにありません。

チラッと座席のすき間から後ろを伺い見ると、紙袋の中のポリ袋を掻き回しておられます。
年若い、ネクタイをした男性でした。

延々と続くので、寝てなどいられません。じ〜ッと耐えるか、車輌を変わるしかありません。
20分は続いたでしょうか。

やがて、静寂が訪れました。何事もなかったかのように。そして、また深い眠りに落ちて行きました。

職場で一日中走り回り、たくさんの書類を書き、階下の事務室へ行ったり来たりを繰り返し、800件を超えるスパムメールを駆除し、20通以上の返信を出し、10本以上の電話をかけ、来客7人の対応を終えると、時計は21時を指すところでした。銀座へ泳ぎに行きそこねました。今日も、いつものよくある一日の終わりです。

帰りの車中で、私の目の前に立った女性が、突然紙袋をガサガサし出しました。
買ったばかりのファッション雑誌を、書店で入れてもらった塩ビの袋からやをら取り出し、その袋を二つに折り、雑誌の裏に当ててグシャグシャと鷲掴みにしながら、頁を繰りだしたのです。
頁が捲られるたびに、プラスチックの袋がカシャカシャという音を発します。

私は本を読んでいたのですが、気が散ってダメなので眼を瞑りました。しかし、あまりにもジャラジャラ〜ベラベラという音が大きく響くので、眼を開けざるをえません。

ご本人は、何とも思っておられない様子です。賑やかなことです。

そのうち、少し離れたところに、その方は座られました。それでも、甲高い袋を丸める時の音が続いていました。

最近、車内で大きな音で音楽を聴いている若者に出会うことが多くなりました。性能の悪いイヤホンなのか、耳の調子が悪いのか、うるさいことだと思っていました。それに加えて、この袋の音が氾濫しだしたようです。

若者にしか聞こえない高周波があるとか。
夜の公園などでこうした音を流し、屯する若者を遠ざけるのに利用されているそうです。

この、紙やポリの袋を丸める時に出る音は、年齢によって聞こえたり聞こえなかったりするのでしょうか。
注意して、車内の乗客の反応を観察したいと思います。
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | TrackBack(1) | 健康雑記

2009年12月06日

京洛逍遙(114)洛陽三十三所(6)金戒光明寺

 風が冷たい師走の賀茂川で、京都市内の小学生たちの駅伝が行われていました。
 たくさんの家族連れが河原に集まり、応援をしています。
 
 
 
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 用事をしながら、京都大学から黒谷へと歩きました。
 百万遍から京都大学を右に見ながら北白川に向かうと、昭和5年創業の「cafe進々堂」があります。
 
 
 
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 中は写真撮影禁止とのことなので、紹介できません。
 大きな木のテーブルと、木の長いすがお店を占めています。大学の木造の自習室か食堂という感じです。こんな雰囲気の場所は、もう数少なくなっています。薄暗いのも一興です。

 吉田山をぐるっと回って、黒谷の金戒光明寺へ行きました。真如堂の南側です。

 途中で、紅葉に囲まれた大文字が見えました。
 
 
 
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 私は、金戒光明寺に来るのは初めてです。
 法然上人がはじめて草庵を営まれた所だそうです。
 
 
 
091206kurotani1山門
 
 
 
 御影堂は重厚さを感じました。
 
 
 
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 文殊菩薩や吉備観音(重要文化財)を見ていて、また観音霊場巡りをしようと思い立ちました。
 西国33カ所は3周しました。新西国33カ所も1周、そして、四国88カ所は香川県を走破、近畿36不動は路の途中と、霊場巡りは大好きです。これまではすべて自動車を使ってのものでした。
 今度は京洛33カ所なので、自転車ですべて回れそうです。
 
 
 
091206kurotani5朱印帖
 
 
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 この金戒光明寺が、私の「洛陽三十三所観音巡礼」のスタートとなりました。

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から略説を引きます。
 
 
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御詠歌 としをへて またたのむべき かんぜおん
      いのちなりけり よしだなかやま

 金戒光明寺の千手観音は吉田寺の本尊で、奈良時代、 遣唐使の吉備真備が帰朝の際に船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ難を免れることができ、 その時唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩が刻んだもので『吉備観音』と呼ばれています。
 江戸時代に吉田寺が廃寺となり幕府の命により当寺に移されました。

 
 


 金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作とのことです。
 日本の三文殊と言われる、「安倍の文殊」(奈良・桜井)と「切戸の文殊」(京都・天橋立)は、何度も行っています。特に「安倍の文殊」は、子どもたちが小さいときは、毎年正月に初詣をしました。
 今日で、やっと3つ目を拝んだことになります。

 金戒光明寺から街中を見下ろすと、朱塗りの平安神宮と、その右手奥に京都タワーが見えました。
 
 
 


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 その後、岡崎公園から京都文化博物館へと移動。

 京都文化博物館では、昨日行った表装の展示会を、再度見ました。
 表装に興味を持ったので、行ったついでにもう一度ることにしたのです。絵よりも、それを引き立てる役割を果たす表具師の方の仕事は、なかなか奥の深いものだと感じ入りました。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆京洛逍遥

2009年12月05日

絵や書を縁取る表装の妙技

 京都文化博物館では、さまざまな展覧会が開催されています。
 特別展などは、見応えのあるものが多いので、よく行きます。
 その上の階などで開催されている地味な展覧会も、いいものがたくさんあります。

 今日は、5階で開催されていた「第94回表展(表装展覧会)」(協同組合京都表装協会、12月6日まで)を見ました。
 これまで、表装というと、襖の張り替えの時や、西国33箇所札所巡りを終えから、集印軸を掛け軸に仕立ててもらうときにしか縁がありませんでした。それが、今回の展覧会を見て、その周りを包む表装の意匠のおもしろさを教えられ、興味を持ちました。

 書籍の装丁は、仕事柄いつも気をつけています。紙や布地など、さまざまなものを目にします。書物がどのようにして作られ、どんな修復技法がなされているのか、注意しています。その背景にある表具師の方々の世界が、こんなに興味深いものだとは…。

 絵や書などを見るとき、それを包み込む額縁や軸について、何も意識せずにいました。
 目の前にある絵や書だけを見ていたのです。しかし、その周りの装いが、作品と協力関係にあるとは驚きでした。
 額のデザインと色合いや、表装の裂の選択によって、作品の印象がまったく違ってくるのです。当たり前のことですが、これまで、そこに注意は向いていませんでした。

 今日は、京都の表具師である宇佐美修徳堂の宇佐美直治さんが、丁寧にわかりやすく説明してくださいました。

 作品を写真に撮ってもいいとのことだったので、紹介します。

 「鶴」は、今回の展覧会で宇佐美さんが受賞なさったものです。
 
 
 
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 銀と金のバランスに創意があるようです。
 作品を引き立たせるために、その背景にはこのような方の助力があるのです。

 会場で私が一番気になったのは、ペルシャ文字風の書の軸装でした。
 
 
 
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 ここに書かれた文字もそうですが、この表装が醸し出す雰囲気は、海の彼方遠い異国に誘います。
 書と表装のコラボレーションと言えばいいのでしょうか。
 明年2月にインドへ行くので、その時にこの作品を見てもらうつもりです。
 どんな反応があるのか、楽しみです。

 会場には、「人物画」「花鳥画」「山水画」「仏画」などなど、たくさんの作品がありました。絵や書を見るときに、その絵や書の縁取りを見て回るのも、これまた楽しいものです。

 気づかなかったおもしろさを、今日は新たに知ることができました。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑記

2009年12月04日

資料に会うために遠出

 電車に揺られて、大阪南部にある羽曳野丘陵へ脚を向けました。
 近鉄藤井寺駅からバスで20分のところにある、四天王寺大学です。
 
 
 
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 かつて、奈良に住んでいた頃には、西国33箇所の第5番札所である葛井寺や、古市古墳群などに何度も行きました。
 久しぶりに来たことになります。車窓の景色が、このあたりを車で走っていた頃を思い出させます。

 四天王寺大学は、以前は四天王寺国際仏教大学と言っていました。
 今回は、恩頼堂文庫の中にある資料を調査し、写真撮影をさせていただきました。

 図書館の方の話では、最近この近くのお寺でサンスクリット語の珍しい文献が見つかったとのことでした。
 日本には、まだ、いろいろなところに、いろいろな本があるようです。その本の価値が認められないままに、たくさん眠っているようです。
 価値や意義のわかる人の目に触れることで、少しずつ姿を現すのです。
 
 本は、人に見られることを待っています。
 大いに、活用したいものです。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ブラリと

2009年12月03日

モンゴル行きの準備開始

 新春早々にモンゴルへ行くことになっています。
 モンゴル語訳『源氏物語』に関して、翻訳者との面談により、翻訳にあたっての詳細をお聞きするためです。
 そのために、モンゴル語訳『源氏物語』を日本語に訳し戻し、何が訳されなかったか、どのような事が補足されて訳されているのかを調査してから現地に入ろうと思っています。
 このモンゴル語訳『源氏物語』は、谷崎潤一郎の源氏訳をもとにしてなされたものです。昨年、その第1巻が刊行されたのです。

 今日は、一緒に行ってお世話になる、国立民族学博物館の大学院生2人と京都駅地下街で会い、食事をしながらいろいろと打ち合わせをしました。
 モンゴルについて、たくさんの情報をもらいました。

 冬期はマイナス30度とのことなので、装備を中心に教えてもらいました。
 また、今回の滞在先である首都ウランバートルの様子も、詳細に知ることができました。
 モンゴル語訳『源氏物語』を理解するためには、首都にいるだけでは不十分です。少し郊外に出て、ゲルなどの生活を見る必要があります。なぜこのように訳されているのかを知るためにも、これは不可欠のことです。ただし、寒い時期なので、どこまで見て回るかは微妙なところがあります。
 慎重にプランをたてることにします。

 とにかく、防寒対策に専念します。ユニクロのヒートテックの衣類は、必需品のようです。
 そして食事も、カロリーコントロールをしている私には要注意です。肉や乳製品が中心となり、野菜が足りない生活となるようです。極寒の地だけに、体力の消耗も激しいとのこと。いろいろな対策を練ってから行くことになります。

 ガイドブックが『地球の歩き方』しかないのは、意外でした。また、現地の滞在記も見あたりません。当分は、現地へ行かれた方の話を聞くことで、渡航前の準備にしたいと思います。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆国際交流

2009年12月02日

再録(8)海外のゲーム事情〈1997.9.8〉

 
この記事は、今から12年前の話です。
 (出所︰「大和まほろば発 へぐり通信」→「新・奮戦記」→「ハイテク問はず語り」→「2年目(1996.10.1〜1997.9.30)」→「海外のお子さま向けコンピュータゲーム事情〈1997.9.8〉」)


 
 
********************** 以下、再録掲載 **********************
 

 小学校六年生の息子と海外旅行をして、昨日帰ってきました。
 今回はすべて自分でプランを練り、手配をし、息子と二人だけで歩いてきたせいもあり、いつもより充実感がありました。そして、今こうしてキーを打っているのですから、疲れも少なかったように思います。

 この旅行では、今まで私には見えなかった新しい流れを見つけることができました。子供たちの世界共通の話題として、最近ではコンピュータゲームとミニレースカーがあるようです。そのことに関する見聞録を、以下に取り急ぎ認めておこうと思います。

 これまでに、何度か海外旅行を経験しました。いずれも、女性の装身具を中心にした買い物が興味の中心になることが多かったように思います。それが今回、息子と一緒に二週間ほど海外を気儘に散策をしていて、子供には子供の、世界共通の話題としてのアイテムがあることを知りました。

 新しい町に入ると、息子はまず玩具屋さんか電気店を覗くのです。そして、ウインドウ越しに見え隠れするコンピュータのゲームソフトを物色し、ミニ四駆を探すのです。どの町にも、きまってこうしたお店があるのです。これまでは、私はそのような店に興味がなかったこともあって、こんなにたくさん子供の目を引くものが並べてあることに気づきませんでした。

 コンピュータゲームについて私は、その草創期からまったく関心がありませんでした。遊びで、マシン語といわれる数字の羅列を入力してみたことはありましたが、それだけです。ずっと昔に、インベーダーゲームを改造したことはありますが、自分が遊ぶことはありませんでした。

 そんな状態なので、海外に行ったときのコンピュータに関する興味といえば、どんなコンピュータがいくらで売られているかとか、いろいろな雑誌やソフトや周辺機器などを眺めるくらいでした。

 今回は、香港返還のこともあり、関西新空港から香港経由でイギリスを目指しました。まず乗換地である香港の空港内の売店では、三つの店でコンピュータのゲームソフトが売られていました。ほとんどが日本で入手できるものだとのことでしたが、それでも、いくつかは息子の知らないソフトがあったようです。

 我が家では、マッキントッシュのゲームと任天堂のゲームボーイは許可していますが、プレイステーションやセガなどのゲームとタマゴッチに類するものは禁止しています。それでも、友達がたくさん持っているせいか、また、子供向け雑誌が毎月特集を組んでいることもあり、これに関する情報は相当持っているようです。インターネットとCS衛生テレビからも、最新情報を仕入れている模様です。

 ロンドンのピカデリーサーカスには、セガのプレイゾーンがありました。入場料が1500円ほどなので入らなかったのですが、ものすごい混雑でした。
 ロンドンのヒースロー空港の売店では、日本にないゲームボーイのカーレースのソフトを見つけました。イギリスのソフト会社が開発したものでした。弟と通信ケーブルを使って対戦するということで、同じものを二つ買わされました。

 宿泊したロンドンのホテルのバーの一角には、ゲーム台がありました。これまでにその機械で記録された得点よりはるかに高いポイントを、それも短時間に二回も出したとのこと。何年後かにまた来たときに、誰かが自分の得点を越しているのかどうかが楽しみだ、と言っていました。私は、そのゲームが来年そこにあるかどうかすら疑問に思いましたが、次にロンドンに来るのが楽しみになったなぁ、と一緒に祝福してやりました。

 ロンドンのソーホーにあるボードゲーム専門店で、バックギャモンを買いました。これは、日本の双六と同じルールのゲームで、私が学生時代に熱中したものです。この平安朝以来の双六を、今回の旅行中に飛行機の中で息子と一緒に楽しみました。初めて目にする洋風双六を、息子も気に入ったようです。

 ちょうどイギリスを離れる日の朝、駅前のスタンドでダイアナさんの事故のことをデカデカと取り上げた新聞があり、何事かとその一つを買って読みました。『SUNDAY MIRROR August 31,1997』の一面は「DODI DEAD, DIANA HURT IN SMASH」となっています。第一報は「衝突で怪我」でした。「DIANA AND DODI . A STORY OF LOVE」と題する40頁ものグラビアの付録が付いていたために、これにしたのです。「DIANA DEAD」とする新聞もあったように思いますが、そのときはまさかと思っていたので、オーバーな表現の新聞には手を出しませんでした。今から考えると、あれも買っておけばよかった、と思っています。

 さて、我々の旅行はロンドンからスイスのチューリッヒへ飛びました。ここでは、日本製のゲームソフトばかりが並んでいたそうです。数は少なかったようです。川沿いの一角に、ゲームセンターがありましたが、未成年者はダメだと言われました。ここだけなのか、この国の方針なのかは、よくわかりません。

 イタリアのベニスでは、伝説の幻のミニ四駆・ポセイドンXとやらを見つけた息子が、やたら興奮していました。香港製で、すでに日本にはないものとのこと。水の都ベニスで見つけたポセイドンだからとか何とか言って熱心に話をするので、ついついこれを買わされてしまいました。

 フィレンツェでも、街角のタバッキーのウインドウに、一つ二つのソフトや四駆がかざってありました。ピッティ美術館のそばにも、おもちゃ専門店がありました。日本にないゲームソフトがあるそうですが、これは諦めさせました。おかげで、ピッティのラファエロの絵を見る時間がなくなりました。

 ピサの斜塔の前に並ぶ出店のお土産物屋さんの中の一つに、ミニ四駆を並べている店がありました。駅前には大きなおもちゃ屋があり、たくさんのソフトやゲームがありました。駅の構内のマーケットの一角には、ゲーム機が四、五台ありました。みんな日本にあるものと同じで、少し古いものだったようです。夜7時過ぎでもやっていました。日の落ちるのが9時ころなので、町は遅くまで開いています。街角のゲームセンターでは、若い子たちが遊んでいました。

 こうした事情は、ローマでも同じでした。

 ナポリでは、市内を散策する余裕がなかったのでよくわかりませんが、駅の地下街の電気店のショーウインドウに、ゲームソフトがいくつか並んでいました。

 ポンペイへも足を延ばしたのですが、ビラ・ディ・ミステリ駅側のオールドポンペイから入場したので、屋台の出店だけで、これといったお店はありませんでした。反対の入り口に当たるニューポンペイ側には、おそらくたくさんあったのではないでしょうか。

 いやはや、こうした文化とでもいうべきものが、視点を変えると見えてくるのには驚きました。今回の旅行を通して、息子に外国というところがどう見えたのかが楽しみですが、私もいい勉強をすることができました。

 それはそうと、ロンドンの書店で、ソニーのプレイステーションを組み込んだマッキントッシュ互換機に関する記事を載せた雑誌を見かけました。希望的観測にもとづく文章だったように思いますが、英文記事に添えてあった写真を見ていた息子は、早くこれが発売されないかとワクワクしていました。
 真偽のほどはどうなのでしょうか。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆情報化社会

2009年12月01日

成田空港でインドに関して打合せ

 インドからお越しのアニタ・カンナ先生を、成田空港までお見送りしました。
 成田から飛行機に乗らずに帰るのは、おそらく初めてのことだと思います。
 それにしても、成田は遠いところにあります。羽田に何とか国際線を入れてほしいものです。

 時間が十分にあったので、ティールームでいろんな話をしました。



・インドと日本における文学研究の交流を活発にすること。

・インドから日本に来る留学生の問題意識を高めること。

・インドで日本の古典籍に関する展示をすること。

・来年2月の〈インド日本文学会〉の計画を立案すること。

・デリーとコルカタにある日本の古い本を調査すること。

・『源氏物語』のアッサム語・オリヤー語・マラヤラム語訳を探す。

・『今昔物語集』をテーマにしたプロジェクト研究ができないか。

・日本文学に見られるインドについて情報収集する。


などなど

 インドと日本の国際交流で、文学の分野はほとんどなされていません。
 その状況を打破するために、4年前に〈インド日本文学会〉を作りました。
 この活動については、インドの日本大使館と国際交流基金の理解が得られています。

 地均しは順調に進んでいるので、文学を通してのインドとの交流を、さらに根気強く継続していきたいと思います。

 なお、来年予定している〈第5回 インド日本文学会〉は、2010年2月12日、13日に開催します。
 国際交流基金の会場を借りて、「文学と絵画」をテーマとした集会をおこなう予定です。
 自費参加も大歓迎です。
 この件での問い合わせは、本ブログのコメント欄をご利用ください。
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆国際交流