2009年05月19日

小林茂美先生のご逝去を悼んで

 学生時代からずっとお世話になっていた小林茂美先生がお亡くなりになりました。
 先週の、5月12日でした。昭和元年生まれなので、御年84歳でした。

 過日3月29日には、「王朝の会」でお目にかかり、楽しくお話をしたばかりでした。
 その時のブログには、ご一緒に写した写真を掲載しました。

銀座探訪(16)桜の咲き初め

 桜の話と一緒なので、思い出深い記事となりました。

 小林先生には、國學院大學の大学1年生の時から、ずっと教えを受けてきました。
 大学の帰りには、妻も一緒に、よく飲みに行きました。山形生まれの先生と、秋田生まれの妻は、共にお酒が強かったこともあり、いろいろな所に行きました。高田馬場や中央線沿線が多かったように思います。
 私は、いつも、怒られてばかりでした。

 小林先生に提出した卒業論文は、『源氏物語と唱導文芸の交渉』というものでした。
 妻は、『小野小町論』でした。

 ご一緒に、調査旅行にもよく行きました。
 結婚式には、お仲人をお願いしました。

 私の最初の著作物である『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(桜楓社、昭和61年)では、帯に推薦文をいただきました。伊井春樹先生の推薦文も、その隣に並んでいます。
 最初の研究書である『源氏物語受容論序説』(桜楓社、平成2年)では、巻頭に口上をいただき、それが高崎正秀賞を受賞したときには、本当に喜んでくださいました。ご一緒に高崎正秀先生のご自宅に連れて行かれ、高崎先生の祭壇に受賞の報告をしました。
 『源氏物語別本集成』(桜楓社・おうふう、平成元年)では、共編者に名前を連ねてもらいました。刊行の直前には、伊井春樹先生と共に奈良・平群の我が家へ来てもらい、最終の打ち合わせをしました。
 あれから、無事に正編の15巻が完結し、今は続編の第6巻が出るところです。
 第1巻が出来るときには、百万円という当時としては高額の活動資金をいただき、版下作成用のレーザープリンターやパソコンなどを購入しました。その時の機器を活用して、初期の『源氏物語別本集成』の版下が作成されています。

 西国札所をご案内する計画も進めていたのですが、脚の調子が悪くなったとのことで中止となり、それきりとなったことが残念です。

 学生時代には、王朝文学研究会で『源氏物語』の勉強をしました。
 その会誌である『しのぶ草』の創刊号は、妻と共に寝ずに作ったものです。
 研究会では、『源氏物語』の輪読にあたり、『源氏物語大成』を使って異本・異文と、古注釈の確認を丁寧にしていました。そのことが、その後、私が『源氏物語』の本文研究へと導かれた基礎となりました。
 小林先生のもとで、『源氏物語』の本文について鍛えられました。今の仕事の原点です。

 私が二十歳の成人式の時、住み込みの新聞配達店が火事となり、持ち物すべてを失いました。その時、先生は研究会のメンバーに同じ釜の飯を食っている男を助けなさい、とのことばで、たくさんの日用品がもらえました。先生からは、ご本もいただきました。

 いつか、高田馬場の美男子製造所という理髪店へ、妻と共にご一緒しました。先生が助手時代に、よく通われた所でした。
 そして、当時お住まいだったアパートにも連れて行ってくださいました。奥様との新婚生活時代でもあります。
 そのアパートは見つかったのですが、大家さんはすでに亡くなっておられました。ご仏前で号泣なさっていた先生のお姿が、今も忘れられません。お辛い時代だったからこその、感動的なお姿を拝見しました。

 毎日のように教えを受けた30数年前の7年間が、今、どっと押し寄せて来ます。
 先ほど、妻が我が家の仏壇に、お線香を上げていました。

 大手町の産経学園で『源氏物語』の講義をなさっていたころ、毎回妻と一緒に聴講に行き、そのすべてをテープレコーダーに録音しました。
 今も、そのテープの山が、我が家の倉庫にあります。

 先生のご自宅に、奈良から娘を連れて行ったとき、大変喜んでくださり、奥様からは大きな縫いぐるみをいただきました。

 小野小町の資料を私がたくさん収集していたので、それを元にして本を刊行する話になっていました。それが、未だに果たせないままです。お預けしたまの京大カード版の小野小町の資料は、何とか形にして、ご霊前にお供えしたいと思います。

 思い出すと、後から後から出てきて、きりがありません。

 いつもおっしゃっていた先生のご期待に、果たして私はお応えできているでしょうか。
 さらなる精進をして行きますので、これまでと変わらずに見守っていてください。

 小林先生、ありがとうございました。
 ご冥福をお祈りいたします。
posted by genjiito at 00:25| Comment(2) | TrackBack(0) | *回想追憶