2009年05月16日

京洛逍遙(76)街中の小さな変化


 先月(4月4日)のブログで、錦市場の入口にある回転寿司屋のことを書きました。

京洛逍遙(60)差別待遇をする錦市場の回転寿司屋



 気になっていたので、今日行ってみたところ、本当にビックリしました。
 寿司屋が消えているのです。



090516susi寿司屋消失



 この1ヶ月の間に、何があったのでしょうか。

 二条城の北側は、かつての内裏の跡が説明板でたどれます。
 その中で、桐壺の南に位置する建春門跡が工事中でした。


090516dairi1建春門跡



 参考までにこれまでの様子を、ブログで確認してみました。


源氏のゆかり(8)説明板12-建春門跡



 ここがこれからどのように変わるのか、次に足を運ぶときが楽しみです。


 その後、京都アスニーの平安京創生館へ行きました。
 平安京復元模型を見ていたら、係員の方が説明をしてくださいました。
 そこで、桐壺があったところから建春門跡にかけては、坂道になっていることを尋ねると、明快な答えをもらいました。
 豊臣秀吉が野原となっていた内裏の東に聚楽第を建てました。
 それが9年間で取り壊された後、堀などが掘り起こされたことにより、平地に高低が出来たのだそうです。
 平安時代から、このような高低差があったのではないようです。
 実際に歩くと、この坂が気になります。平安時代には坂ではなかったことがわかり、少し安心しました。
 地勢はあまり変わらない京都ですが、歴史の流れの中では、このような変化があるようです。

 ここではじめて、建春門跡の石柱に彫られていた「此付近 聚楽第南外濠跡」の意味がわかりました。
 内裏のすぐ横に、聚楽第があったのです。そして、長い間、内裏があったところは野原だったということです。
 そこに人々が住み着き、今のように家々が狭い路地に密集したようです。

 なお、この内裏があった一角は、平安時代のイメージはまったくありません。
 ただし、殿舎の位置関係と、それらが意外に近いところに建っていたことが、実際に歩くと実感できます。
 これは、貴重な体験となります。ぜひ、この内裏があった地域を歩いてみてください。
 弘徽殿と藤壺の近さや、桐壺から清涼殿までの距離感などがわかります。

 さて、アスニーの展示場の入口に、子供向けのクイズがありました。
 その中の次の質問は、大人にも難しいものだと思います。


090516dsitumon


 これは、展示内容のすべてを見ればわかるのですが、それにしても、子供には難しいことには変わりがありません
 答えは、法勝寺でした。
 京都検定ではないので、もっと易しいものに変えてみてはいかがでしょうか。
 余計なお節介でしょうが…。
posted by genjiito at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎京洛逍遥