2008年06月07日

源氏千年(49)京文博で記念シンポジウム

 京都文化博物館の別館で、『源氏物語』の千年紀を記念するシンポジウムが開催されました。
 これは、中古文学会関西部会の例会が、特別イベントとして開催したものでした。
 東京からもたくさんの研究者の方々が参加しておられました。
 大盛況のシンポジウムでした。

 「大島本源氏物語の再検討」というテーマのもとに、熱のこもった研究発表がなされ、多くの知的な刺激を受けました。
 私も、最近は大島本の調査を通して、この本について関心を持ち出したところです。
 私は、陽明文庫本を大事にして来ました。その意味では、大島本は無視していました。しかし、いろいろな関わりから、私にとっては無視できない本になったのです。そして、大島本が持つ問題点と、その評価について、いろいろと思いをめぐらさざるをえない状況になってきました。

 そんな時だったので、大いに期待して会場で聞き入りました。
 しかし、あまりにも期待し過ぎて参加したせいか、私にとっては思ったほどの収穫がなかったのが残念でした。

 やはり、パネルディスカッションというのは、難しいものですね。
 パネラーの先生方は、よく資料を博索し、よく調べておられたので、最近とみに記憶力と根気がなくなった私は、感心しながら聴いていました。
 それでも、多くの資料からの推測がシャープ過ぎて、私にはよくわからないことが多かったのです。
 私も年のせいか、くるくる考えることができなくなりました。若い方々の論理展開とその見通しに、もうついていけなくなった、と言った方がいいでしょうか。

 とにかく今日の討論は、私の期待を大いに裏切るものだったので、自転車での帰り道は、ペダルが重たく感じられました。
 パネラーは元気だったし、歯切れもよかったし、説得力を持って語っておられました。それにもかかわらず、どうしたわけか、私にはそのことばに重みが感じられなかったのです。
 発表者に対しては、こんな印象や感想で申し訳ないのですが……。

 特に、大島本の用例検討にあたり、傍記や修正やナゾリを取り込んだ最終本文が資料の基礎となっていたことが、この研究分野のレベルがまだまだ低いことを痛感させられました。
 『源氏物語別本集成』で提示した大島本の本文が、本行の本文をもとにしている意味が、まだまだ一般には理解されていないようです。
 本日も発表者のみなさんが、基本文献とされる『源氏物語大成』を批判的に扱いながら、あの資料編の呪縛から逃れられないのはどこに問題があるのか……。会場の椅子に座ったままで、耳では言葉を聞きながら、心の中では、目の前で展開される少し聞き飽きた退屈な論理の意味を反芻していました。

 最後に、司会の片桐洋一先生が、こんなことばでまとめておられました。

「今までの国文学界が、大島本を持ち上げ過ぎた。」

「『源氏物語』の本文研究は遅れている。」

 そして、「池田亀鑑先生を度外視できない」という研究状況を、痛烈に批判しておられたように聴きました。

 私も、『源氏物語』の本文に齧り付いている1人として、こうした批評には自分なりの答えを用意しています。それが、『源氏物語別本集成』であり『源氏物語別本集成 続』を土台とするものなのですが、これを答えとするには、まだまだ時間がかかります。

 今は、残す所あと10冊となった『源氏物語別本集成 続 全15巻』の完結にむけて、ひたすら作業をするしかありません。その後で、本日のような論争に参加できればいいな、と思っています。

 今日のイベントで私が一番よかったのは、シンポジウムが始まる前に、舞台の横で実演された、和紙と和紙を水と糊とで着ける、「喰いさき」と言われる技法の紹介でした。


Wyw3zvmz_s喰いさきの実演



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 このことは、藤本先生から何度も説明を聞き、実際に目の前でやってくださったのですが、いかにも職人という方の実演を見て、改めて古写本のありように目が向くようになりました。

 開会前のプレゼンテーションが一番よかった、というのは主催者の皆様に失礼ですが、私にとっては確かなメッセージが伝わってきたデモンストレーションでした。





posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎源氏物語