2008年05月27日

江戸漫歩(6)与謝野晶子の住居跡

 いつもいろいろと教えを受けている室伏信助先生が、お住まいになっている荻窪の地を案内してくださいました。
 それも、与謝野晶子の住居跡や近衛邸などなど、私が現在関心をもっているところばかりです。
 以前から案内してくださるとのお話でしたが、私の職場が立川に移転し、荻窪が通勤途中の駅になったこともあり、それではということで急遽実現しました。

 実は、私は学生時代に、この荻窪の桃井という所に1年ほど住んでいたことがあります。3畳一間の狭いアパートでした。荻窪は、思い出深い地でもあります。
 当時は、与謝野晶子にはまったく興味がなかったので、近くにいたのに知らなかったのです。

 荻窪駅まで出て来てくださった室伏先生は、夕方とはいえ急に暑くなった日差しの中を、いろいろな楽しい話をしてくださりながらの文学散歩となりました。

 荻窪駅から南に少し歩きながら、まずは角田文衛先生がお亡くなりになったことが話題となりました。室伏先生は、大島本の複製本をおまとめになる時に、角田先生と頻繁にあっておられたからです。私が昨春、角田先生のご自宅を訪問した時の話等をしたところ、いろいろなことを思い出しになって、エピソードを語ってくださいました。

 そうこうする内に、おしかわ公園に着きました。その角に、立派な案内板がありました。室伏先生もご存じないものだったので、最近出来たもののようです。


Uoqphwij_sおしかわ公園



Uie0esq0_s説明板



 そこからさらに、晶子の『新訳源氏物語』についてのお話をしながら歩き、南荻窪中央公園へ向かいました。
 ここは、与謝野晶子と鉄幹が住んでいた跡地です。


Ebvp1uks_s南荻窪中央公園



 公園の入り口にあったパネルには、こう書かれています。



歌はどうして作る
じっと観
じっと愛し
じっと抱きしめて作る
何を
「真実を」

「私はどうして作る」より
       与謝野晶子




 晶子と鉄幹は、昭和2年にこの荻窪の地に転居してきました。
 広い屋敷には、「采花荘」と呼ばれた日本家屋と、「遥青書屋」という洋館があったそうです。


Almq8r_y_s公園の中から



 そして、その2つの建物の間に、「冬柏亭」という書斎がありました。これは、晶子の50歳のお祝いに、お弟子さんたちが贈ったもので、昭和5年に完成しました。
 鉄幹が昭和10年に62歳で亡くなり、晶子も7年後の昭和17年に64歳で亡くなります。晶子が残した歌は、なんと5万首だったそうです。

 晶子没後の翌18年に、この「冬柏亭」は門下生の岩野喜久代氏の住まいだった大磯に移されました。それがさらに岩野氏によって、昭和51年に鞍馬山に移築されたのです。
 これは、同じく晶子の門下生だった鞍馬寺の信楽香雲初代管長との縁によるものだとのことでした。

 私は、一昨日の日曜日に、晶子の自筆原稿の撮影に関する仕事で,鞍馬寺に行っていました。お寺の方々のお世話になって帰って来たばかりだったので、今日この晶子の旧宅の地に立っていることが、不思議なことのように思われました。
 それも、尊敬する室伏先生に案内してもらってのことだったので、ありがたいことと感謝しながらの散策でした。

 晶子と鉄幹のことは、説明板にある通りです。


Zi2eq25n_s説明板



 帰り道に、晶子と鉄幹の似顔絵付きの旗が、道々の街灯に下げられているのに気づきました。大通りの街灯にも付けられています。


Qybfnycj_s大通りの街灯に



 街を盛り上げるために、与謝野夫妻は今も貢献していることになります。



posted by genjiito at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ・江戸漫歩